巻頭言
臨床評価 2001; 28(3): 379-80 より
 この特集を思い立ったきっかけは海の向こうからやってきた.途上国におけるHIV母子感染予防臨床実験の倫理性をめぐる論争と,幻の ヘルシンキ宣言1999年改訂案をめぐる論争である.

 今日の世界は,一方で先端医療,ゲノム創薬,ポリファーマシー,薬害などに象徴される先進地域と他方で生存に必要な医療や医薬品すら こと欠く発展途上国や先進諸国の発展途上地域とから成り立っている.医・薬の過剰と欠乏という両極の地域に固有のイッシューは何か.探って みるに,第1部は過剰の側からみた過剰と欠乏に共通する原則の,第2部は過剰における個人の,第3部と第4部は過剰と欠乏の架け橋の, イッシューと言える.これらを見渡すと,むしろ,先進地域では医療サービスや物・情報が過剰であるにもかかわらず,医薬品の合理的な使用, 消費者・患者の健康・幸福に結びつく肝心な情報や方法論が欠如している現実が浮かび上がる.過剰と欠乏は,必ずしも地理的に分布して いるとは限らず,両極に代表される諸問題の混ざり合ったモザイク状況の中にわれわれは生きているのではないか.



 第1部では,この入り混じった状況を,医・薬の原理原則のレベルから眺めようとする.一見,南北問題の様相を呈する諸問題の中に, 個人倫理と集団倫理の衝突を見る.伝統的な医の倫理と公衆衛生・薬事行政の論理とのディレンマでもある.ヘルシンキ宣言は,1999年改訂案 をめぐる論争を経て,世界医師会2000年エディンバラ総会で採択されたが,その後2001年3月プレトリアで開催されたカンファレンスにおける 議論は,20世紀の終わりになされた宣言の改訂が21世紀の論争のプロローグであったことを示している.

 こうした国際的な議論の紛糾をよそに,われわれ日本人の多くは,ニュルンベルク綱領からヘルシンキ宣言へ,そしてその5回におよぶ改訂の 流れを,遵守すべき自らのルールについての論争として実感することはなかったように思う.エディンバラ改訂後の変革に無頓着な実験計画書 (プロトコル)に枕詞のように書かれている「ヘルシンキ宣言に基づき」の文言は,日本の研究者・医師,製薬企業にとって宣言が神棚のしめなわのようなもの であることを物語る.黒船は,ICHという名の欧米なかんずくアメリカの論理と倫理として,来航した.ICH-GCPそして治験原則の冒頭にヘルシンキ 宣言遵守が規定された答申GCPによって,にわかに存在感が出て来たのかもしれない.

 ヘルシンキ宣言とICH-E10ガイドラインとの関係は,今後も続く激しい論争を引き起こすだろう.幻に終った1999年改訂案のうち, インフォームド・コンセント原則を梃子にプラシーボ対照を広く認めようとする考え方は,行政当局の本音であろうし,これからの論争の一方の 方向を示してもいる.ルール違反を指弾されたとき,作ったルールなのだからルールを変えればよい,というアメリカ的なルールメーキングの リアリズムは,医の倫理や医プロフェッションの在るべき姿は自然法のように存在するなどと呑気に構える者への挑戦状のようでもある.医学 研究の障害物に対する魔よけと穿ってもみられるヘルシンキ宣言しめなわ論は,そろそろ卒業すべきときではないか.

 近頃は,倫理原則は科学研究を推進するために克服すべきものであり障害物ではないと考える若い研究者が現れている.増井徹は「倫理を 科学と対立するものと捉えるのではなく,倫理的思考の基礎としての科学的前提という考え方が重要である」と述べる(医学のあゆみ 2001 ;197(13)).科学によって得られた新しい知見は次の新たな知見により乗り超えられていく.治療における「プラシーボ効果」を報告する証拠の質は 厳格には評価されていないとの論文が最近公表された (Is the placebo Powerless? An analysis of clinical trial comparing placebo with no treatment. N Eng J Med. 2001;344:1594-602.) .こうした最新の知見をふまえて,国際的論議に参加していく他ない.ただし,科学的でありさえすれば倫理的であると言えないことに常に 留意しなければならない.科学は神のように振舞っているが,その不確実性を暫く置いても,科学が倫理を覆い尽くせるものではない.



 第2部においては,「科学的で倫理的な治験の推進」の前提とされる原則を改めて省察する論考がみられる.「患者」は,「リクルート」された ときから「被験者」となる.被験者保護のために,実験遂行者がIRBと並んで頼りにするインフォームド・コンセント原則にも厄介な問題が潜んでいる. 「患者は,その医療分野で専門家になる決意がなければ,実際のところ自己決定は不可能ではないだろうか」とは佐藤孝道の問題提起である. 例えば経験10年の医師が医学部卒業に要する6年を加えて16年の経験で学んだことを理解するには平均16年,古い知識や直接的でない知識を 除いても1〜2年かかるとすれば,十分なインフォームド・コンセントのためには医師は1〜2年をかけて説明しなければならないことになる,と述べる (出生前診断.有斐閣選書;1999).素人とプロフェッショナルとの対話はいかにして成立しうるか.レヴィ・ストロース風に言えば,同意は権力を 制限すると同時に権力の源である.科学技術の専門家は,情報の非対称の故に,素人にとって権力者であるという自覚が果たしてあるだろうか.



 第3部においては,南北問題における先進国の負うべき責任とともに発展途上国から学ぶべき事柄が示される.第4部の,WHO必須医薬品 モデルリストを出発点とし「薬篭に何を入れるか」の論議は,文明国の過剰の中における欠乏と,その打開の足掛かりをわれわれに気づかせる.

 レヴィ・ストロースは「野生の思考」(大橋保夫訳.みすず書房;1976)の中で,「ハヌノー族は,植物の様々な構成部分や特性を記述するための 用語を150以上持っており,それらは同時に植物のいろいろなカテゴリーを示す.ハヌノー族はそれらのカテゴリーに従って植物を同定したり, 植物を区別する何百という性質について論議を交わす.その性質が薬用もしくは食用として有意義な特性に対応することはしばしばである」と, 生物環境との極度の親密さ,情熱的興味,精密な知識を持つ現地人(indigenes)の豊富な例を紹介している.彼らの第一の目的は実用性ではなく 知的欲求に答えるものだと知って驚く.こうした現地人の能力をとうの昔に失ったわれわれは,WHO,国家,病院,医師など,ものを知っている人 たちに頼らざるを得ないことになった.薬籠に何を入れるか,の論議に市民一人一人が参加していくことは可能なのか.



 過剰と欠乏とがモザイク状に入り混じったグローバリゼーションの時代に,われわれは如何なる思考と方法論とによって,医や薬を自家薬籠中 のものとする地平を切り拓くことができるのであろうか.

「臨床評価」編集委員
光石忠敬

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Vol.28, No.3, Jun. 2001「ヘルシンキ宣言2000年改訂とグローバリゼーション時代の倫理」目次へ