日本の臨床試験は,様々な局面で過渡的な時期にある.1998年4月の新GCPの全面施行以降,医療施設での体制づくり,治験 コーディネーター(Clinical Research Coordinator:CRC)の教育,被験者募集の方法の改善など,臨床試験の質改善に向けての動きがみられ, 実際,質は向上してきていると思われる.これに対し,臨床試験の情報公開については改善しているとすぐにはいえない状況にある.これまでは,1967年の厚生省薬務局長通知 にもとづき,医薬品承認申請のための試験については学術雑誌に試験論文を公表するよう行政指導がなされていた.この日本独特の規制方針は, 1999年4月に新たに出された通知の中では言及されず,事実上廃止になった.一方,1999年11月より「新薬の承認に関する情報」として, 承認新薬についてのより詳細なデータが厚生省のホームページで公開されるようになった.
今回「臨床試験の情報公開と国際保健」というテーマで特集を組んだのは,こうした日本の規制方針の変化とその各方面に及ぼす影響, 将来像について,国際的な視野から展望するためである.医薬品規制の三極のハーモナイゼーション,製薬企業の多国籍化と吸収合併, 根拠に基づいた医療(evidence-based medicine:EBM)の普及,といった情勢は,医薬品の問題をグローバルな視点から議論する必要性を 急速に増大させている.こうした趣旨から1999年3月15日,前WHO事務総長の中嶋宏氏と,消費者の立場から国際的な医薬品問題に取り組む 弁護士Ellen 'tHoen氏を招き,世界保健総会で紛糾した課題と,「治験論文の公表要件廃止」という国内的な問題とを照らし合わせながら, 医薬品の情報公開について議論する座談会を設けた.様々な問題が凝縮して語られたこの座談会を発端として,そこから派生してくる新しい 時代の臨床試験の情報公開を考えるための地図を示す意味で,次のようなサブ・テーマで論文や記事を集めた結果が,この号の目次となっている.
(1) 知的所有権とパブリック・ヘルス
座談会では,EU当局の情報公開の現状とそれに対する消費者側からのアプローチが紹介された.規制当局・企業・消費者の間に,日本と 比べると透明性のある情報の流通や共同作業が実現されているが,消費者が適正で安全な処方と医療を受けるにはなお十分といえず,民間の 独立医薬品情報誌が当局や企業に対しても影響力を持ち,より適切な医療情報を提供する努力を続けている.一方,医薬品の南北問題として, 途上国には必要とする医薬品にアクセス困難な人々があり,一部の国では自国で医薬品を製造するための情報を求める動きと,先進国 製薬企業の知的所有権保護の立場とが対立し,そのための国際法的な環境整備が求められている.医薬品を必要とする人々へ適正な形で 届ける,「パブリック・ヘルス」のための情報開示と,「知的所有権」との利害の衝突というサブ・テーマで,座談会を補完する資料を4編付した.
(2) 臨床試験登録・公開の現況と展望
新薬の情報が電子媒体で公開されることになったが,進行中の臨床試験の情報にアクセスすることは難しい.現在,ヨーロッパを中心に, 公的研究機関と主要な製薬企業がイニシアチブをとり,ホームページに掲載したり,The Cochrane Libraryに登録するなどして,一般に公開する 動きが進行している.これにより,被験薬の有効性が証明されなかった「ネガティブ・トライアル」などの情報が明らかになり,無駄な試験の 繰り返しが避けられ,登録された情報は将来のシステマティック・レビューにも利用可能となり,よりエビデンスの高い医療情報が提供される ことになる.公平で透明性があり,よりよい医療が提供されるための臨床試験であってこそ,消費者の参加を広く呼びかけることができる. 日本で広く知られない間に世界的な趨勢となりつつあるこの「登録・公開」について紹介する記事4編を掲載した.
(3) 三極の電子媒体による情報公開
ここ数年,日本の厚生省やその関連機関のホームページは徐々に充実し,承認新薬については相当量の情報が開示されるようになった. しかし,EU,FDAと比べると,情報のレベル,量,消費者との相互関係などになお開きがある.三極が,電子媒体による情報公開をどのように 実施してきているか,三極それぞれの,当局側からの見解と,消費者側からの見解,合計6編の記事を,講演録,寄稿,転載等,様々な形態で 掲載した.EUやFDAの現状は日本の将来像を予測する意味で参考になろう.また,同じ事象を当局と消費者が異なる観点から述べている記述も 興味深い.情報公開が促進される趨勢の中で布石となることが望まれる.
(4) 医薬品の合理的使用に向けて
必須医薬品(essential drug)の概念は,医薬品の情報公開の意義を異なる角度から照らし出す.様々な治療領域で,有効性の高い医薬品の 開発が競われ,知的所有権保護の名のもとに開発過程の情報の一部は一般に入手し難いものとなっている.だが,そもそもそれらの医薬品の すべてが必要とされているのだろうか.世界に視野を広げれば,必要な医薬品にアクセスできない人々がかなりの割合を占めている. グローバルな視点から,より適正な供給・分配・処方のあり方を考える意味で,WHOの提唱する必須医薬品,さらにその理念に基づき適切な 処方行動を導くためのPersonal drug(P-drug)の概念を紹介する記事5編を掲載した.医療情報は,医療従事者と患者が向かいあい,病が癒される という本来の目的のために使われるべきである,という原点を振り返る契機となることを願いたい.
以上のような観点から編集したが,冒頭で述べた規制方針の変更と関係して,重要であるが今回十分に触れられなかった問題が「日本における 医薬品情報誌の今後のあり方」というテーマである.治験論文公表要件廃止という問題は,医薬品の臨床試験の時点から市販後までの情報 のあり方という大きなフレームの中で考えるべきである.公表要件の廃止は,論文が書かれなくなることを即座に意味するものではない.今後, 優れた臨床試験論文は,海外のクオリティの高い雑誌に投稿されるようになるであろう.規制緩和の流れの中で,臨床試験そのものが海外で 行われる傾向もある.しかし日本においても,新薬承認申請のための試験だけではなく,幅広く質のよい臨床研究が行われ,優れた論文が 発表される状況をつくってゆくべきである.今,直面する課題は,よりエビデンスの高い,医療従事者や消費者に必要とされる情報をつくり出し, 伝達する方法を探ることだろう.この課題についてはいずれ取り組みたいと考えており,各方面からの示唆をいただけることを期待している.
「臨床評価」編集委員
津谷喜一郎