編集後記


臨床評価 1977; 5(2): 453より

例年のように、今年の夏も、悪童連が大挙して、逗子の先輩の家に、海水浴に行った。「太陽の季節」の海で火照りふくらんだ肌を、悲しく 切なくもビールと西瓜とで冷やし、なおその酔いと興奮との覚めやらぬまま、曉闇の葉山の海に釣り舟を浮かべた。
酔余に釣果を競おうというのである。

こと釣りに関する限り、私の偏差値は重症遅滞児クラスであろう。垂れた釣糸にかかるものは、海藻や木屑ばかり。いや真っ直ぐに糸を垂らす ことができれば、むしろ上出来な方で、前に抛ったつもりの錘りがうしろへ飛ぶ、となりの釣糸にからまる、散々な目であった。
乏しい戦果に舟を帰そうとしたとき、突然強力な引きが襲った。それタイだヒラメだ、クジラだプレシオサウルスだ――という悪童連の大声援の さなか、私は慎重に糸をたぐり寄せ、まさに船舷に魚影を見んとした刹那、突如、釣糸の力は抜け、糸屑藻屑が朝日にきらめくばかり。

釣り落した魚は大きいと言うけれど、ニュージーランド沖のプレシオサウルスも、実に惜しかったと思う。朝日新聞は「腐乱したウバザメ」説を とっているが、それではあまりにロマンが無いようにも思える。釣り落した大魚だとか、有用性を否定された薬剤だとかは、せめて空想世界の 中だけでも、大恐竜クラスのものであってほしい。そしてわれらはわが見ぬ水子のため、ひそかに赤い前垂れを路傍のみ仏にささげ、冥福を いのるであろう。

しかし腐乱したウバザメを眼前にしつつ、なおかつそれをプレシオサウルスだと強弁主張する輩も、跡をたたない。チャンネルをひねりさえすれば、 ブラウン管に想像上の怪獣を、自在に現出せしめうる世代は、その怪獣の実在性について、つい無節操になりがちである。臼井吉見氏の「事故 のてんまつ」も、同じような経緯の話であった。

観光のための熱海城を、現実に歴史に存在した小田原城と弁別しがたい時代に、われわれは生きている。そして私は、このような時代における 「臨床評価」の真価は、情報の真贋についての厳しさにあるのだろうと、ひそかに自負しているのだ。(栗原雅直)

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