ヘルシンキ宣言2000年エディンバラ改訂
e-mailインタビュー

ヘルシンキ宣言改訂をめぐる議論
―Levine, Lurie, Lagakosによるコメントとその背景―
Interview with Robert J. Levine, Peter Lurie and Stephan W. Lagakos
-Discussion on the Declaration of Helsinki and its background-
Robert J. Levine (Yale University)
Peter Lurie (Public Citizen’s Health Research Group)
Stephan W.Lagakos (Harvard School of Public Health)
(構成:栗原千絵子 By Chieko Kurihara)

〔臨床評価(Clinical Evaluation ) 2001; 28(3): 409-22より〕


Abstract
  This article consists of interviews with Levine, Lurie, and Lagakos on the discussions concerning the 2000 revision of the World Medical Association (WMA) Declaration of Helsinki and a commentary on the background of the interview.
  Levine comments on the ethics of clinical trials using as a case study the recent clinical trials for preventing HIV perinatal transmission in developing countries conducted with the sponsorship of the NIH (National Institute of Health) and CDC (Centers for Disease Control and Prevention), and his works as a chairperson of the WMA Electronic Working Group that drafted the proposed revision of the Declaration which was not fully adopted. Lurie, of the consumer group Public Citizen, comments on studies which have generated debate on the ethical issues of clinical trials in both international medical journals and the electronic and print media, as well as his attempts to influence the Declaration’s revision process by, for example, mobilizing researchers and activists around the world to write to the Secretary General of the WMA. Lagakos, although not involved in these debates, participated in the Data and Safety Monitoring Board of one of the clinical trials for preventing HIV perinatal transmission in Thailand, conducted by the Harvard School of Public Health in cooperation with other institutes. He also comments on the issues mentioned above.
  The succeeding commentary briefly describes how is the international debate on the Declaration’s revision process, from its previous adoption in 1996 to its latest adoption in 2000.

Key words
the Declaration of Helsinki, ethical standard of clinical research, the World Medical Association




 ヘルシンキ宣言1996年サマーセットウエスト改訂から2000年エディンバラ改訂に至る経緯において国際的医学雑誌や電子媒体を通じて様々な形 で議論が展開された.議論の契機ともなった発展途上国におけるプラセボ対照のHIV母子感染予防臨床試験のプロトコール作成や,ヘルシンキ 宣言の改訂案の起草に関与した米国イエール大学Robert J. Levine教授,米国のPublic Citizenに参加し市民側からの働きかけを行った Peter Lurie医師,そして上述したような途上国での試験のうちハーバード大学公衆衛生大学院などによる実薬対照試験のモニタリング委員会に 参加したStephan W. Lagakos教授より,コメントを寄せていただいた.いずれもe-mailによるインタビューへの回答をそのまま日本語訳したもので ある.なお,三者のコメントの後に,背景となる事実関係の説明を補足したが,その記述にあたっては,日本医師会顧問弁護士の畔柳達雄氏に 教示をいただき,日本医師会からは貴重な資料をいただいた.



 Robert J. Levineへのインタビュー
 (2001年4月14日回答,その後数回の通信により補足)


Robert J. Levine  Q1 ルバイン先生は,ヘルシンキ宣言,CIOMS (Council of International Organization of Medical Sciences:国際医科学評議会 )ガイドライン,HIVワクチン開発のガイドラインなど様々な規範づくりに関与してこられ世界的にも著名な方ですが,今回のヘルシンキ宣言修正に あたってはどのように関わっておられましたか.

 Levine 1998年に,世界医師会はメンバーである各国医師会に,ヘルシンキ宣言の改訂案を準備する作業グループに参加する 1名以上の人を指名するよう申し入れました.アメリカ医師会は私を代表団のリーダーに指名しました.そのすぐ後に世界医師会は私に世界 医師会の作業グループの座長として働くよう依頼しました.このグループは,(正確な名称ではありませんが)「ヘルシンキ宣言修正案作成の ためのe-mail作業グループ」(“The Electric Working Group to Propose a Revision of the Declaration of Helsinki”)と名づけられました.私は, 世界医師会の,オタワで開かれた医の倫理委員会に準備レポートを提出し,1999年4月のサンチアゴでの委員会ではファイナル・レポートを 提出しました.いずれもこの作業グループを代表して書いたものです.
 オタワでの会議は,準備レポートに示した3つのパートからなる私の改訂案作成プランへの合意を確認するためのものでした.すなわち, a)臨床と非臨床(治療的と非治療的)の区別をなくす.b)科学的,倫理的に正当化できるプラセボ対照等を容認できるよう,最善と証明された 治療法についての基準を改訂する.c)CIOMSガイドラインのような詳細な項目を列記した文書ではなくこれまでどおりの抽象概念のレベルで 書かれた公式的原則の構成を維持する,というものです.この案に異議は唱えられず,合意されました.
 サンチアゴの会議では,改訂案を提出しました.委員会はこれについて議論した後,医の倫理委員会(Medical Ethics Committee)の 3人のメンバーの指導のもとに改訂作業を継続することを決定しました.それ以降は,私はそのプロジェクトについて正式な参加をしていません.

 Q2 今回の改訂は,それに至る国際的な議論を経て厳格な倫理的水準を示しているとされますが,最終案についてはどのように 評価されますか.

 Levine 1996年版については緊急に修正を要する問題点が2つありました.1つは,「治療的(臨床的)(“therapeutic”(clinical))研究」と, 「非治療的(非臨床的)(“nontherapeutic”(nonclinical))研究」との,非合理的な区別でした.2000年版ではこれらの言葉はなくなりましたが, 残念ながら非合理的な区別は,例えば28項などに残っています.もう1つの主たる問題は,「証明された治療方法」 (“proven therapeutic method”)が存在する場合に試験の対照群にプラセボを用いることに対して極端に抵抗する姿勢です.しかし「証明された 方法」(“proven method”)は不十分なものかもしれないのです.この極端な姿勢は緩まることはありませんでした.多くのアメリカのジャーナリストが, 極端にプラセボに抵抗する姿勢は2000年改訂版で新しく現れたものとして報じていますが,これは少しも新しいものではなく,1996年版とまったく 変わらないものです.
 他の条項については比較的重要ではありません.1つの新たな条項,しかし明らかに改善でない条項は,30項です.他にも1996年版から 改善されている変化がいくつかあります.

 Q3 FDAのRobert Templeは科学的な妥当性の確保のためのプラセボ対照の必要性を訴えていますが,三極で合意に至ったICH-E10 対照薬選定のガイドラインとヘルシンキ宣言との,プラセボ対照についての考え方の差異についてはどのようにお考えですか.

 Levine ICH-E10がプラセボ使用について示しているガイダンスは,ヘルシンキ宣言におけるそれよりもずっと優れたものです.

 Q4 途上国でのHIV母子感染予防臨床試験について,試験の結果が出た現在どのようにお考えですか.

 Levine AZTがプラセボ対照でなかったとしたら,AZTの短期投与療法が有効だという知見は,少なくともタイでの試験においては, 得られなかったでしょう.

 Q5 最近のJAMAの記事(Vastag B. Helsinki Discord? A Controversial Declaration. JAMA 2000;284:2983-5.)では,CIOMS ガイドラインが,ヘルシンキ宣言によって示された厳しい倫理的水準とは反対の方向に改訂されそうだと報じられていましたが,実際のところ どうなのでしょうか.

 Levine 私はCIOMSガイドライン改訂についての運営委員会の座長をつとめています.ガイドライン改訂版のドラフトはまだ完成して いません.この1ヵ月のうちに,公布するのにふさわしいものとなることを希望しています.それは,ヘルシンキ宣言と整合性のあるものになる 可能性は非常に少ないだろうと考えています.
 ヘルシンキ宣言が「厳しい倫理的水準」を示しており他のガイドラインが「より倫理的でない」といわれるのでしたら,その意味は私には理解 できません.

 Q6 Levine先生はHIVワクチン・トライアルのガイドライン作りにも関与されているかと思いますが,そのガイドラインは,患者側の利益を 代表する人たちが参加することによってよりよいものとなってきているとききました.これについてのご意見を伺えますか.

 Levine UNAIDSガイダンスについては,他のドキュメントよりもよいとも悪いとも思いません.デザインについては,HIVワクチンの 多国籍試験に焦点を絞ったものです.他の文書は,人対象試験全般を包括することを意図して作られている点が異なります.私はUNAIDSから 依頼を受けて,最初のドラフトからセミファイナル・ドラフトまでを作成しています.

 Q7 最近の,消費者グループが途上国で抗HIV薬の値段を下げるよう企業に交渉している動きについては,何かお考えがありますか. いくつかの企業は値段を下げると表明しています.

 Levine AIDS治療薬を製造しているいくつかの主要な国際的製薬企業は,最近,自発的にそれらの治療薬の価格を下げました.これは 篤志家としてのジェスチャーでありその意義には限界があります.第1に,下げられた価格は,いわゆる開発途上国の1人あたりの年間医療費より もはるかに高額です.第2に,米国において1つの新薬を開発するのにかかる費用は約5億ドル,日本円で620億円です.この費用を回収しなければ ビジネスになりません.

 Q8 他に,日本の読者に伝えたいことがありましたら,コメントをいただけますでしょうか.

 Levine ヘルシンキ宣言に対して否定的なリアクションが広範にあることは明らかです.2001年3月27日と28日南アフリカのプレトリアで, 改訂されたヘルシンキ宣言についてのカンファレンスがありました.何人かの発言者は,自国の規制当局や所属する機構において新しい宣言の いくつかの条文は遵守することができないと明言し,新宣言は厳しい批判を受けました.最も重要なのは,プラセボ対照についてヘルシンキ宣言 が示した姿勢です.それを支持する意見はまったくありませんでした.資源の乏しい国々において,証明された最善の治療法を強調する点に 関しては,それらの国々の住民にとって不利益をもたらすものだと多くの発言者が述べました.パキスタンから参加しているAsad Jami Raja は,“let them eat cake”policyだと言いました.私はマリー・アントワネットの有名な言葉を,同様のアナロジーとして使うことがありますが,それは 米国内だけで使っていました.こうした西洋に特有の引用を,西洋ではない国々の仲間と語る場合に用いることは,よくないことだと考えていたから です.ほとんどすべての人たちが,そのような姿勢は,途上国の人々が,豊かな国々で使われている高価な治療法すなわち「証明された最善の 治療法」(“best proven therapeutic method”)に代わる,入手可能な治療法を開発するための努力を妨害する姿勢であると言っていました.
 豊かな国々のスポンサーや研究者が,途上国の人々が入手可能な代替的治療法を開発しようとするのを手助けしようとする努力を,邪魔する ものだということです.重要なのは,そこに参加していた人々の大多数が,ヘルシンキ宣言に対する反対意見を表明していたということです.批判は あらゆる地域から出されていました.プロパガンダをする人々によって述べられてきたように,北アメリカばかりから出されているものではありません. 政府の職員,研究者,政府代表,NGO代表,製薬企業など,様々な立場の人々です.世界医師会からの参加者は3名いました. Delon Human(CEO),Anders Milton(President),Nancy Dickey(2000年版のドラフトを作成したグループの座長)です.その会議で聞いたことに よって,彼らは,2000年改訂版について再考すべきだろう,プレトリアで議論されたような問題をこれ以上起こさないように文書を修正することを 試みたい,と言っていました.特定の結果を保証することはできない,とも付け加えました.彼らのコメントの調子やその他の側面から,多くの条項が さらに改訂されることを期待できるだろうと考えます.


 Peter Lurieへのインタビュー
 (2001年4月24日回答)


Peter Lurie  Q1 今回のヘルシンキ宣言改訂に際しては消費者グループが大きな影響を及ぼしたようにみえます.あなたはSydney Wolfeと連名で 世界医師会事務総長に宛てて手紙を書きPublic Citizenのホームページで公開し,また国際的な医学雑誌で意見を表明し多くの人を巻き込んだ 議論を喚起しました.一方,影響力があったのは市民活動の力よりもヨーロッパの医師会とアメリカ医師会との見解の違いとみなす人もいます. 改訂の経緯に大きく影響した要因を,どう考えますか.

 Lurie ヘルシンキ宣言の前の版を書き直し弱めようとする人々の努力は,途上国で行われたHIV母子感染予防臨床試験の非倫理性を 暴く私たちや他の人々の努力に対するリアクションとして出てきた部分が大きかったのです.まず,米国イエール大学のRobert Levine教授が 世界医師会から任命されて草案を起草しました.ヘルシンキ宣言を改訂しようという性急な動きは少なからず米国から出てきたことは明らかです. 歴史的に,ヨーロッパは米国と比べて実薬対照に寛大だったのです.事実,何人かの米国FDAの職員は積極的にヨーロッパの人々に対し実薬 対照の欠点を証明し納得させようとしてきました.私たちは,一般には公開されなかった1999年3月のヘルシンキ宣言改訂版ドラフトのコピーを 手に入れましたが,これを倫理に関心のある人たちの国際的なメーリングリストを通して回覧しました.これによって,患者の貧困を理由に最適で はない治療法を使う臨床試験を正当化する「医療水準論」(“standard of care argument”)を公式に支持することになるドラフトに対する,世界的な 反論が高まりました. *実施する地域での医療水準を下回っていなければ他の地域での最適な治療法を与えずとも認められるという議論.
 このときの世界医師会の取り組みは非常に民主的なものでした.世界中からデータを集め,あるときは宣言文のドラフトをwebに置き, インタラクティブなフォーマットを使ってコメントを求めました.数千とは言わないまでも,数百のコメントが世界中から寄せられました.私たちは 世界医師会に何度も手紙を書き,自分たちのweb-site(www.citizen.org/hrg)にそれを載せ,メーリングリストの数百の参加者に流しました.そして ついに,世界中から一般の人々の声が届き「医療水準論」は退けられたのです.これは論争の規模による勝利であるだけではなく,倫理ガイド ラインの作成作業における公開性によるものといえるでしょう.市民参加への扉が開かれた今,二度と閉じられることはないでしょう.

 Q2 採択された改訂版についてはどのようにお考えですか.発展途上国の中には「証明された最善の治療」は入手可能ではない, ということを言う人々もいますが,あなたはe-mailによるアナウンスメントでは,採択された最終版さえも被験者を守る観点からは満足なもので あるとはいえないと述べておられました.最終版についてのお考えをきかせてください.

 Lurie 当初被験者保護が弱められる方向で計画されたプロセスが,宣言を強めることに収束したというのは,皮肉なことです.新しい 宣言は,1つ前の宣言文と比べて以下の点が改善されています.
 a. 倫理審査委員会の役割と研究者の副作用報告の責任について述べられている.
 b. 生体試料と二次的データに関する倫理的問題にも適用範囲が広げられている.
 c. 実験計画と結果についての一般への情報公開が強調されている.
 d. 同意能力のない人々は,それ以外の被験者では不適切というのでない限り実験の被験者とすべきではないと条件づけられている.
 さらに,発展途上国の共同体全体が,研究によって有効性を証明された治療法を入手できるようにすべきという具体的な記述が,初めて 入りました.「医学研究は,研究の対象となる集団が研究の結果得られた利益を受けられる相応の可能性がある場合にのみ正当とされる」と いうものです.試験が始まる前に試験終了後の入手可能性についての合意を結ぶ必要性についての文言が入ったドラフトもあったのですが, 残念なことにこれは最終版では除かれました.
 結局,「医療水準論」の考え方,これは1999年3月のLevineによるドラフトによって成文化されるはずのものでしたが,これは最終版では 退けられました.「医療水準論」が起こり,議論され,退けられたという事実はおそらくこの論争の最も重要な結果かもしれません.しかしながら, 採択された宣言は(発展途上国の問題を別にしても)プラセボ使用に関してやや大ざっぱに書かれすぎていると思います.
 最小限の害のみを患者に及ぼす疾患(季節性の鼻炎,軽い頭痛など)についての研究であって,かつ危険性のかなり小さい非常に短期間の 研究(1〜2週間の降圧薬試験など)については,たとえ有効な治療法があってもプラセボ使用を正当化できると私たちは考えています.

 Q3 発展途上国におけるAZT試験については,いくつかの結果が公表された今,どのようにお考えですか.

 Lurie 母子感染予防試験は,倫理的にも科学的にもよりよい方法で実施できるはずだという私たちの主張に対して,試験の結果に よって名誉回復したことは明らかです.プラセボ対照試験のすべての治療群において,HIV感染率は,それまでの感染率(観察研究もしくはランダム 化比較試験のプラセボ群において得られたもの)よりもずっと低いものとなったので,治療群は何もしないよりよいということは難なく明言できること になりました.
 加えて,Marc Lallemantらのタイにおける実薬対照試験はNew England Journal of Medicine (October 5, 2000;343(14):982-91)に公表されました が,4つの群すべて(分娩前−分娩後について,長期−長期,長期−短期,短期−長期,短期−短期の4群)がAZT投与を受けるというこの試験は 大変な成功でした.4つのレジメンは無治療よりは明らかに優れており,注意深い試験デザインによって短期投与のAZTレジメンのどの要素が最も 肝要かという有用な情報が得られ,その情報はプラセボ対照試験では概して得ることのできない情報でした.短期−短期の群は,他の3群よりも 感染率が高いということがわかった時点で早期に中止されました.この試験が必要とした患者の数は他の4群比較のHIV母子感染予防試験 (UNAIDSによる)よりもわずかに少なく,完了したのは他のいくつかのプラセボ対照試験よりも後でした.というのはDr. Lallemantは,当初プラセボ 対照試験を主張していた米国国立衛生研究所(National Institute of Health:NIH)の担当課との交渉により契約を結んでいたからです.

 Q4 倫理的な問題について日本の読者に伝えたいことが他にあればお伺いしたいと思います.

 Lurie AZT試験に関する論争以降,私たちはもう1つの非倫理的な試験,今回は米国のDiscovery Laboratories of Pennsylvaniaという 製薬企業がスポンサーとなっていますが,これについて一般の注目を集めようとしてきました.この企業によるラテン・アメリカの4つの国での新しい 人工サーファクタント(Surfaxin)の試験計画を,FDAが必死に擁護しようとしていたことを私たちは知ったのです.致命的な呼吸障害症候群 (Respiratory Distress Syndrome:RDS)の可能性のある新生児についての試験で対照群の325人は,すでにFDAで承認された生命を救う4つの 人工サーファクタントのいずれをも与えられずプラセボによって治療を受けることになっていたのです.この研究計画の搾取的な特質が明らかに 示されるうち,医薬品の承認を求めるこの同じ企業はヨーロッパで,人工サーファクタントの新薬を投与されない幼児はすべて,すでにFDA が承認した人工サーファクタントの投与を受けるというデザインの試験を計画しました.FDAの内部文書では「RDS新生児のための人工 サーファクタントのプラセボ対照試験の実施は米国においては非倫理的とみなされる」「(効果の証明された人工サーファクタントの代わりに) プラセボを対照群として使うことは17人の子供の避けられるはずの死を招くと見積もった.」と述べられていました.
 FDAは他の人工サーファクタント(Infasurf)を1998年に承認しており,その根拠となった試験は1991年から93年の間に行われ,すべての比較対照 群の小児は効果的と考えられる薬剤で治療され,プラセボは使用されなかったというものでした.何よりもそれが理由で,私たちは米国政府に対し, 非倫理的で搾取的な試験計画を中止するよう要求しました.
 この試験について私たちが提示した情報は,FDA内部のFDA Scientific Roundsと関連する数百人のFDA職員が利用できる文書に基づくもの でした.その会議のタイトルはひどく不適切だけれども意味深いもので,「生命を脅かす疾患におけるプラセボ対照の使用:発展途上国は回答と なるか?」(Use of placebo-controls in life threa-tening disease:is the developing world the answer?)というものでした.さらに,試験が実施される はずだった国(ボリビア,エクアドル,メキシコ)においては,人工サーファクタントはいくつかの病院で使われていましたが,FDAの文書では「人工 サーファクタントは,供給や経済に関する制限のため多くの病院で新生児にとって完全に入手不可能となっている」と書かれていました.試験の 実施が計画されていたのは後者に該当するいくつかの病院だったのです.
 2001年4月4日,その製薬企業はプラセボを使用しない試験デザインに修正していると発表しました.この出来事はすべての臨床試験の研究者に 対して,発展途上国は非倫理的な研究をダンピングで行える場所ではないのだということを明らかに示しました.今となっては,途上国の貧困を 理由に生命を救う治療を提供せずにそれらの国々の住民を搾取することは完全に容認できないということに疑問の余地がなくなりました(そして ヘルシンキ宣言によって排除されることになったのは明らかです).
 それでもなお,途上国での試験の実施が増えるにつれて,研究に関する倫理が腐食される可能性を憂慮する者たちが,監視の目を光らせ 続けることは必要でしょう.CIOMSはその倫理コードを改訂しようとしています.Public Citizenはその改訂プロセスを監視し続けます.そのドラフトは これまでのところ,一般に公開されてはいないのです(注:その後Webで公開されている)


 Stephan W. Lagakosへのインタビュー
 (2001年2月26日回答)


Stephan W. Lagakos  Q1 HIV母子感染の途上国での臨床試験は国際的な議論を呼びましたが,ハーバードによる試験のみがプラセボ対照を使っていません でした.ハーバードの試験と他の試験の結果についてどのように評価されますか.

 Lagakos Lallemantらによるハーバードの試験では,母親のほうが短いレジメンのZDV投与または新生児のほうが短いレジメンのZDV 投与のいずれについても,予防効果の有効性は,母親と新生児の双方にZDV長期投与をするレジメンの対照群と同じであることを示しました. しかし,母親と新生児の両方ともZDV短期投与とするレジメンの場合は,対照群のZDVを双方に長期投与するレジメンよりも,ずっと効果が劣る ことが示されました.
 このように試験は,標準的なZDVレジメンに代わる治療法として予防効果を低めることなく実施できる方法とそうでないものとを明らかにするのに 大変有用でした.もう1つのタイにおける母子感染予防の試験は,CDC(Center for Disease Control and Prevention:米国疫病管理予防センター )と共同で行ったもので,短期のZDVレジメンとプラセボを比較するものでした.その目的は,オリジナルの米国での試験で使われた治療法 (ACTG076レジメン)とくらべてより短いレジメンのZDV投与は,治療を受けていない母親からの母子感染を大幅に減らすことができるかどうかを 調べることでした.短期投与のZDVレジメンがスタンダード(076)レジメンに匹敵する有効性を持つかどうかを決定できないであろうことは,CDC の試験を開始する前から明らかでした.もしも試験によって差がないということが示されたならばスタンダード(076)もタイでは有効でないという結論は 得られないし,もしもかなりの利益が示されたとしても076レジメンと同じかどうかは決定できない,ということになります.一方,ハーバードの試験 ではZDVを4つの群すべてに使っていたので,そのうちのどの群がどのくらいプラセボに対して有効かということは証明できないものでした.
 このように,どちらの試験も科学的な限界のあるものでした.結果としてわかったのは,CDCの試験では短期投与のZDVはプラセボより優れて いるということで,ハーバードの試験では短期投与のZDVレジメンはZDVの長期投与を含む他の3群のレジメンよりも劣っている,ということでした. 最も大きな違いは,CDCの試験は,ZDVが母子感染のリスクを減らすのに有効であるということが少なくとも西側の人々には知られている時点で プラセボ群を使った,ということでした.CDCの試験でプラセボ対照を使ったことを非倫理的だとする人たちもいたようです.しかしCDCの試験が 始まった時点ではほとんどすべてのタイの妊婦はZDVを使えないのだから,プラセボを使うことは倫理的である,という人々もいました.私自身の 考え方は,ハーバードの試験は,より有意義な科学的仮説を示しているということです.このようにプラセボ使用に頼らなくともよかったので,私に とっては明らかに好ましい試験デザインでした.

 Q2 ヘルシンキ宣言の改訂のプロセスについてはどのようにお考えですか.

 Lagakos 改訂版をまだ深く検討してはいませんが,読んだ限りでは,プラセボ対照についての結論には同意していません.CDC のタイにおける試験でプラセボ対照を使ったことを私は個人的には正当化できませんが,世界のどこかですでに証明された治療法がある場合に プラセボを使うことに対して一方的に反対するものではありません.

 Q3 北里−ハーバードのブリッジングについてのシンポジウムでも,日本は欧米と比べてプラセボ使用に抵抗があることが明らかになった と思います.プレス・カンファレンスで,Lagakos先生とEUのシンポジストの方と質疑応答をさせていただいて,プラセボ使用はインフォームド・ コンセントのプロセスや組み入れ・除外基準などが整備され,スクリーニングも注意深く行われるのであれば,それ自体が非倫理的なのではない ということ,そうしたインフラストラクチュアの整備が肝要であることを教えられました.また,先進国で非倫理的とされる試験を途上国で行って そのデータを先進国で使うことが非倫理的なのだとしたら,日本で欧米のプラセボ対照試験の結果を使うことについてはどう考えるか,という問題 提起もなされました.ICH-E10との関連も含めて,倫理性と科学的妥当性のバランスについてご意見を伺いたいと思います.  *その記録は,「臨床評価」28巻supplementとして刊行,Lagakosによる結語のうち212-214頁に途上国での試験についての発言がある.

 Lagakos 興味深い問題を提起されていると思います.しかし,もし米国とEUがプラセボを使って実施した試験が,実施した国において, また資金を出しているところによって,倫理的であると考えられているのならば,私はそうした試験の結果を使って日本で薬剤の評価を助けることは 何ら倫理的な問題はないと考えます.

 Q4 ワシントン・ポストでは,ナイジェリアで製薬企業によって実施された臨床試験で多くの子供たちが犠牲になっているという問題を 報じた特集記事を掲載し,ホームページでも掲載しています.このレポートについてはどのようにお考えですか.

 Lagakos ワシントン・ポストのレポートは,興味深い点をいくつも指摘しています.この中で十分に検討されていないと思われる点,そして そのこと自体が私にとっては興味深いのですが,それは,発展途上国で実施され外国がスポンサーとなる試験について,中間解析結果 (interim results)をモニターする方法についての問題です.ホスト国のエキスパートが参加する中間解析をするモニタリング委員会の存在は 必要不可欠です.今この問題について詳述できませんが,将来これについて執筆することを考えています.

 Q5 日本の読者,とくに臨床試験に従事する製薬会社や医師が,グローバル開発時代を促進すべき時代となった今学ぶべきことは何か, コメントをいただけるようなことがありましたら,お願いいたします.

 Lagakos 非常に重要な点は,有用な薬剤の入手可能性ということはパブリック・ヘルスの観点における最重要の関心事であるということ です.このため有用な薬剤をできる限り迅速に世界中で使えるようにする方法には誰もが高い関心を抱いています.ブリッジング・ストラテジーと グローバル・プロトコールを使うことは,目的を達成するために非常に効果的な方法です.最も良い形で実施できる方法を検討することに価値が あると考えます.




補足・ヘルシンキ宣言改訂の背景
栗原千絵子


 はじめに


 「ヘルシンキ宣言」は,1964年6月ヘルシンキで開催された世界医師会総会でその初版が採択された.初版から緒言に“They(条文を指す) should be kept under review in the future”とあり,その後も検討が重ねられ,現在までに5回の改訂を経ている.第二次世界大戦中のナチス・ ドイツ下の医師らによる人体実験を裁くニュルンベルク医師裁判の判決文において1947年「ニュルンベルク綱領」が示されたが,同年に設立された 世界医師会がその後も医療に関する倫理原則についての議論を重ね,サリドマイド事件も背景にあり,1964年に医学研究を実施する際に準拠 すべき勧告として採択したのが「ヘルシンキ宣言」である1).その緒言では1948年のジュネーヴ宣言,1949年の医の倫理の国際綱領より引用し医療 行為全般にわたる医師の責務に触れているが,ヘルシンキ宣言は,そうした医療者の責務と矛盾することなく,人を対象とする医学研究に限定して 準拠すべき倫理基準として記述されている.「医療」と「医学研究」の葛藤は改訂のプロセスに強く影響しているといえるだろう.

 75年10月東京,83年10月ベニス,89年9月九龍,96年10月サマーセットウエストでの総会で改訂が重ねられ,2000年10月エディンバラでの総会で 最新版が採択された.それぞれに採択に至る討議があり,背景に医療現場の動向と対応して医療倫理に関する世界的な議論があった.今回の 採択後の2001年3月,世界医師会では,採択された宣言について検討する公開のカンファレンスを南アフリカのプレトリアにおいて他の諸団体との 共催で開催し2),今後もさらに検討が必要であることをニュース・リリースの中に述べている3)

 過去の改訂作業においては,東京改訂でインフォームド・コンセントがより重視され,独立した委員会による審査が新しく規定されたこと,サマー セットウエストでプラセボ使用についての文言が加えられたことなど,他にもいくつかの際立った議論を反映して改訂がなされたのと同様,2000年 改訂についても種々の顕著な議論の焦点があった.中でも,対照群にも「最善の治療」を保証すべきとする条項,治療的研究・非治療的研究の 区別の問題などが議論を呼んだ.

 ここに掲載したインタビューは,とくに「最善の治療」についての論争に当事者として関与したLevine,Lurie,第三者的立場にあるLagakosによる ものである.それぞれの関与した場面を整理することも含めて,96年版から最新版採択に至る経緯をまとめてみる.


 1. 議論の背景


 世界医師会の総会(General Assembly)は毎年秋に開催される.総会にかける検討課題をまとめるために委員会(Committee)で討議し理事会 (Council)で承認するが,毎年春には委員会と中間理事会,秋には総会とその会期中に委員会・理事会が,定期的に開催される.委員会は,医の 倫理委員会・社会医学委員会・財務企画委員会の3部構成となっており,ヘルシンキ宣言については医の倫理委員会(Medical Ethics Committee) で検討されるが,ここでの議論に至るまでに小規模な作業グループが構成され詳細な作業がすすめられる.総会は委員・理事等の他にも一般会員 や登録手続をした専門家・報道関係者に公開されるが,発言権があるのは各国代表とアドバイザーで,議長が認めた場合に他の傍聴者も発言 できる.委員会・理事会は非公開である.その他に,公開のワークショップやカンファレンスなどが開催されることもある.これらの会合や催し・作業 が積み重なって改訂案が作成されていくことになる.

Table 1 Process of the Edinburgh revision to the Declaration of Helsinki
  世界医師会(WMA)の改訂案作成に向けての動き 改訂をめぐる論争と周辺の動き
1996年 10月WMAサマーセットウエスト総会にて改訂ヘルシンキ宣言(第4版)採択. 5月ICHバージニア会議でICH-GCP三極合意.E10ガイドラインについての検討も始まる.
1997年 11月WMAハンブルグ総会に向けてアメリカ医師会による改訂案が提出される. 9月Lurie,WolfeらのHIV母子感染予防臨床試験をめぐる論文がNEJMに掲載,その後の議論の発端となる.
1998年 4月WMAモンテビデオ中間理事会にて改訂案取り下げられる.
10月WMAオタワ総会にてLevineのレポートが提出され,e-mailによる作業グループが発足.
12月ドイツ医師会雑誌でDeutsche, Doppelfeldらが改訂案への批判を述べたと報道される.
1999年 4月WMAサンチアゴ中間理事会で,Levine改訂案提出されるが採択されず,Dickey,Myllymaki, Kazimirskiによる新しい作業部会が発足.アイスランドの遺伝子問題が紛糾する.
10月WMAテルアビブ総会にて上記作業部会は承認されるが,それによる改訂案は採択されず.
3月Lurie, Wolfeが世界医師会事務総長宛の手紙により改訂案の問題点を指摘.
4月Deutsche生誕70歳のゲッチンゲン・シンポジウムでヘルシンキ宣言改訂案をテーマに議論.報告をWMA中間理事会へ提出.
2000年 5月WMAディボンヌ中間理事会.
中間理事会の前と後に,WMAホームページにて改訂案へのコメントを一般より募集.
10月WMAエディンバラ総会にて改訂ヘルシンキ宣言(第5版)採択.
7月ICH-E10対照薬選定ガイドライン三極で最終合意.
10月宣言採択の後も,医学雑誌・電子メディアにおける議論は継続.
2001年 3月WMA採択された宣言についてのプレトリア・カンファレンスを開催. 2月日本でICH-E10通知が出され,施行.


 1996年10月の改訂に先立つ同年5月にICH-GCPが三極合意に至りヘルシンキ宣言遵守が原則とされ,ヘルシンキ宣言と日米欧各国GCPとの 整合性の問題も議論を喚起している.また,1994年から98年にかけて先進国が出資し途上国で実施されたHIV母子感染予防臨床試験をめぐる 論争が97年9月以来NEJM(New England Journal of Medicine),LancetBMJ(British Journal of Medicine) 他の国際的医学雑誌上で展開された.現在改訂に向けコメント募集中のCIOMS(Council of International Organization of Medical Sciences:国際 医科学評議会)ガイドラインとの整合性も求められ,問われていくであろう.このように,先進国・途上国様々な現場で実施される医学研究に普遍的 に適用される倫理原則を,世界医師会という一種の職能団体が広範な意見を集約させて条文化していくのである.


 2. 1997年ハンブルグ総会以降


 1996年のサマーセットウエスト改訂の後にも種々の問題点が指摘されていたが,1997年11月には,ハンブルグで開かれた世界医師会総会に 向けてアメリカ医師会が改訂案を提出した.このアメリカ医師会案は,これまでの緒言・基本原則・臨床研究・非臨床研究という4部構成を踏襲せず, 臨床・非臨床の区別をなくし,新たな構成を持った項目を設け,それまでの基本理念を条文化した文言とは異なり詳細に各論を記述していく文体に 改められたものであった.この改訂案については世界医師会より求められ各国からコメントが寄せられた.ヨーロッパでは臨床・非臨床の区別を なくすことが既存の教科書や法理念・規制と合わない,という観点からの反対もあった.日本も,この改訂を必要なしとするコメントを出した. Public CitizenのLurie,Wolfe,NEJMのAngelが途上国におけるHIV母子感染予防臨床試験に対する批判を表明したことが,これらの議論の発端 ともなっている4,5)


 3. 1998年モンテビデオ中間理事会とオタワ総会


 1998年4月ウルグアイ・モンテビデオで開かれた中間理事会ではアメリカ医師会の改訂案は取り下げられたが,改訂案には重要な課題が 含まれるものとして,医の倫理委員会委員長Appleyard(イギリス)の協力のもとアメリカ医師会が調整役となり改訂作業が続けられた6).さらに いくつかの医師会に対し意見を提供しうる専門家の提供が求められ,ここでLevineが実質的な調整者となり,10月オタワの総会でe-mailによる 作業グループが発足した.この時点でLevineは改訂案についてのプランを記したレポートを提出,チリでの委員会に向けて改訂案を作成,各国 医師会にコメントが求められた.このレポートの主張は11月に刊行されたNEJMにも論文として掲載された7).この間,前年に口火を切った途上国 でのHIV母子感染予防臨床試験についての国際的な議論が展開した8)

 ヨーロッパでは,改訂案に批判的な立場をとる医事法学者Deutscheと,ドイツ医師会作業グループ責任者であり世界医師会機関紙編集長でも あるDoppelfeldらが,改訂案は倫理基準を低くするものだと強い意見を述べていることがドイツ医師会雑誌で報じられた9)


 4. 1999年サンチアゴ中間理事会とテルアビブ総会


 1999年3月の時点で,Lurie, Wolfは連名で世界医師会事務総長Human宛てに改訂案について詳細に批判する手紙を書き,96年版からの変更点 を対照表にして添付,これをPublic Citizenのホームページにも載せメーリングリストを通じて広くアクションを呼びかけた.ここでは一般公開されず 非公式に広められた改訂案を対象としている.4月にはDeutscheの生誕70歳記念としてゲッチンゲン・シンポジウムが開催され,ヘルシンキ宣言 改訂について議論を重ね,その成果がシンポジウムの結論として成文化され,翌週サンチアゴで開かれた世界医師会理事会に提出された.

 4月のサンチアゴでの委員会で,Levineはe-mail作業グループの作業を反映して改訂案のファイナル・レポートを提出した.4月の理事会では 理事による改訂案採否の投票が同数となり,改訂案を総会にかけることは見送られた.日本医師会長の坪井栄孝が間に入って,改訂案の枠組み は残し詳細は見直すという方針がとられることになり,Levineに替わって「三賢女」(“the three wise women”)と称される Dickey, Myllymaki, Kazimirskiが中心となる新しい作業部会が発足した.この委員会ではアイスランドの遺伝子問題が紛糾しヘルシンキ宣言について の議論が十分に行えなかったようである.ここに至る数年のゲノム研究の展開も宣言文に影響している.

 同年10月のテルアビブ総会では,「三賢女」による新作業部会が承認されたが,改訂案採択には至らなかった.この総会で坪井は次期世界医師 会長に選ばれ,翌2000年10月の総会で世界医師会長に就任することとなった.日本では故武見太郎に次ぐ2人目の世界医師会長ということで 報道された.


 5. 2000年ディボンヌ中間理事会とエディンバラ総会


 1999年の総会から2000年の総会にかけての期間は,上記の新作業部会が中心となり何度も改訂案のドラフトが出され,1年の間に8版を重ねた ということである.2000年5月ディボンヌ中間理事会の前と後には,改訂案を世界医師会のホームページに載せて公開し一般からのコメントを 募集した.世界医師会としては初めての試みであった.BMJではRothman, MichelsとBaumの対立する見解を掲載10),他にも多くのヘルシンキ宣言 についての論文が国際的医学雑誌に掲載された.Lurieは被験者保護の観点から「証明された最善の治療」についての条文をとくに問題にして 随時メーリングリストでの議論を喚起し,宣言採択の直前・直後にも世界医師会へコメントを送るよう呼びかけた.

 一方7月には,1996年より検討されてきたICH-E10対照薬選定のガイドラインが三極で最終合意に至った.プラセボ・実薬対照の科学的妥当性と 限界について詳細に言及されるこのガイドラインとヘルシンキ宣言との整合性は今後も問われることになろう.FDAのTempleはプラセボ対照の 妥当性について長く主張してきているがガイドライン作成においても重要な役割を果たし,消費者団体との議論も紛糾した11)

 世界医師会総会は10月3日に開幕,医の倫理委員会では5日に宣言の委員会案がまとまり,6日の理事会を通過,同日の総会で採択されるはず だったがプラセボ対照に関する文言をめぐって調整が難航し,最終日の7日に4分の3以上の賛成票を得て採択された12,13).これらの議論は,事務総長の Humanが司会をし,スクリーンで個々の条文が映写されて議論され,修正されていった.こうしたプロセスの中で途上国理事の発言により,同意 文書を本人から得られない場合の正式な文書による記録と証人による証明を要求する条項(22項),研究終了後被験者が証明された治療法を 利用可能となるよう保障すべきことを求める条項(30項)などが盛り込まれた.宣言の適用範囲を生体試料や個人識別情報も含むとする冒頭の 一文(1項)は,日本医師会からの提案により間際に入ったということである.


 6. エディンバラ改訂以降


 エディンバラで改訂案が採択された後も,Lurieは市民側の勝利であるがまだ不十分な点が残るとして,メーリングリストを通じてのアナウンスメント を行っている.また,いくつかの,先進国出資による途上国での臨床試験が被験者を犠牲にしているという訴えは,その後も電子媒体,一般メディア, 医学雑誌でなされている.

 世界医師会では,プレトリア大学とヨーロッパGCPフォーラムとの共催でWHO,CIOMS他,多くの国際機関や諸団体の後援を得て,2001年3月27 ,28日南アフリカのプレトリアでのカンファレンスを開催した2).その冒頭でHuman事務総長は,今回の改訂には世界各地から多くの人々の関与が あったことに謝意を述べつつ,医療をめぐる様々な環境や文化の変化,医師患者関係の変化などにより修正されるべきものとして語っている. 改訂の背景や問題の焦点,経緯などについて欧米,途上国それぞれの立場からの発表があり,上述した中ではDickey,Levine,Temple も発表を行っている.この成果を短くまとめたニュース・リリース3)では,改訂により多くの成果が得られたが,プラセボ対照に厳しい条項については 各国の規制との不整合がありこの点についてはさらに検討が必要であると述べ,継続して議論の場を設けることを約束している.


 おわりに


 上述した経緯は筆者が直接現場を踏むことなく得た情報の整理であり,系統だった調査によるものではない.日本医師会雑誌では改訂の プロセスについての座談会を掲載14)JAMA(The Journal of the American Medical Association)では各方面の見解を報道15),プレトリアのカンファレンス ではDickeyが改訂プロセスについて発表しているが,世界医師会の公式の経時的な記録が編纂されてはいないようである.しかし,断片的な 記録からも浮かびあがる,世界的なガイドラインが世界の現場の動向と議論を受けて改訂されていく際の具体的な人の動きのダイナミズムに 着目したい.異なる立場から記述すれば,また異なるダイナミズムが浮かびあがるだろう.

 このようにして採択された宣言は,宣言自体が法的拘束力を持つものではないが,各国の規制は宣言の示す基準を弱めてはならないとされ (第9項),日本の新GCPにおいてもヘルシンキ宣言に準拠すべきことは治験の原則とされる.新薬承認申請のための「治験」以外の医学研究にも 適用すべきとする規制を求める声もある.今回の改訂では,研究結果の刊行に際しての著者と発行者の責務も強化されたが(27項),医学雑誌 編集者国際委員会(International Committee of Medical Journal Editor:ICMJE)による「生物医学雑誌に関する統一規定」 (Uniform Requirement for Manuscripts Submitted to Biomedical Journal:URM)においてはヘルシンキ宣言に準拠すべきことがあらゆる医学 研究論文の投稿の条件とされており,世界的な医学雑誌は同様の投稿規程を設けていることも,さらに広く認識されたい.また,米国では 「非倫理的」と記載して出版すべきか,出版を拒絶すべきか,などの論争が展開した歴史もある16)

 電子媒体による情報公開と議論の速度の変化は,今後も国際的規範の改訂に大きく影響するであろう.Humanも上述の発表の結びで 述べているように,パターナリスティックな医療は医療者・患者のパートナーシップが重視される方向へと変化してきており,それに応じた医学研究の 倫理規範が求められるが,その改訂のプロセスに医師以外の医療者や患者,一般市民が今後さらに参加していくことになるだろう.一般市民は 患者の視点を維持しつつもテクニカルな議論に参加する研鑚を積むことが求められる場面もあろう.そして,人対象研究の歴史的変遷と個々の 改訂プロセスに注目することで,医療と医学研究の倫理原則として時を経て貫かれる本質と,開かれた議論により刷新されるべきものの特質とを 見極めたい.

 
文 献

1) 香川知晶.生命倫理の成立・勁草書房,2000.
2) http://shsph.up.ac.za/dohconference
3) http://wma.net/e/home.html
4) Lurie, Wolfe. Unethical trials of interventions to reduce perinatal transmission of the human immunodeficiency virus in developing countries. N Eng J Med 1997;337:853-6.
5) Angell M. The ethics of clinical research in the third world. N Eng J Med 1997;337:847-9.
6) 坂上正道.世界医師会の最近の動き−ヘルシンキ宣言の改定作業をめぐって−.臨床評価 1999;26:395-408.
7) Levine RJ. The need to revise the Declaration of Helsinki. N Eng J Med 1999;341:532-4.
8) 佐藤恵子.途上国で行なわれたHIV母子感染の予防試験とそれをめぐる議論.臨床評価 1999;26:381-5.
9) Klinkhammer G. Medizinische Ehik-Kommissionen-Gegen Minimerrung ethischer Standards. Deutsches Arzteblatt 1998;95:A-3103.
10) Rothman KJ, Michels KB, Baum M. For and again-st:Declaration of Helsinki should be strengthened. BMJ 2000;321:442-5.
11) Enserink M. Are placebo controlled drug trials etical? Science 2000;288:416.
12) 日刊薬業 2000年10月5日(木)
13) 日刊薬業 2000年10月12日(木)
14) 特別座談会 ヘルシンキ宣言の改訂をめぐって.日本医師会雑誌 2001;125(3):349-63.
15) Vastag B. Helsinki Discord? Controversial Declara-tion. JAMA 2000;284:2983-5.
16) Robert J. Levine. Ethics and regulation of clinical research. 2nd ed. Urban & Schwarzenberg 1986.

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Vol.28, No.3, Jun. 2001「ヘルシンキ宣言2000年改訂とグローバリゼーション時代の倫理」目次へ