ヘルシンキ宣言2000年エディンバラ改訂
論 説
ヘルシンキ宣言エディンバラ改訂について考える
On the Edinburgh revision of the Declaration of Helsinki
光石 忠敬 (光石法律特許事務所)
〔臨床評価(Clinical Evaluation ) 2001; 28(3): 381-95より〕
Abstract
The Edinburgh revision of the Declaration of Helsinki has made significant strides towards respecting, protecting, fulfilling and promoting the individual subject/patient’s rights−strengthening the power of the ethical review committee, disclosing designs and results of research, disclosing investigator/physician’s potential conflicts of interest, ensuring access to the best proven method at the conclusion of the study, limiting the investigator/physician’s freedom to conduct studies, limiting the entry of incompetent persons, etc.
The revision, however, has left several significant issues that need to be discussed, such as vagueness of criteria permitting placebo control studies, the lack of subjects’ right to compensation, lack of criteria for selecting individual subjects, lack of responsibility for creating a social mechanism to restore profits gained from certain types of research, etc. The limitations of the placebo control issue, above all, are a difficult one because what individual ethics results in contradicts what collective ethics results in.
A subject’s well-being consists of life and body on the one hand, and of will or self-determination on the other, and they are closely integrated. If an individual is subjected to clinical trials lacking in statistically sound design and the results are merely added to consumer risk, wouldn’t self-determination be harmed? The revision has provided a good opportunity to discuss the yet-to-be-established Human Subject Protection Act.
Key words
subject/patient's well-being, conflicts of interest, disclosure, best proven method, placebo control
はじめに
1) エディンバラ改訂
ヘルシンキ宣言1)は,2000年10月のエディンバラにおける世界医師会第52回総会において,大幅に改訂された(以下,改訂後
の宣言を「新宣言」,改訂前のサマーセットウエスト版を「旧宣言」,一般的に宣言を「宣言」という).日本のマスメディアは,「基準を厳しくしたこと
は歓迎したい.問題はこれを研究や医療の現場でどのように実効あるものにしていくか,である」と評している2).改訂の際,発展途上国がアメリカ
に対して最後まで異議申し立てをした経過が報告されているが,「われわれから見たら何でもないことのようでも,あの人たちにとっては非常に
重大なことなのだ」とは日本側の感想である3).アメリカの規制当局者は,プラシーボ対照のデザインと衝突する点に対し,集団倫理の立場からで
あろう,新宣言は「科学的にも倫理的にも正しくない」と語ったと伝えられている4).日本医師会は,改訂がエディンバラで終ることなく決してドグマ化
しないようにとの総会議長の言葉を引いて「宣言が出されてこれでおしまいというわけではない」とさらなる検討を促している5).
2) 本稿の視点
人間について医学研究が行われる場合,一方の価値,すなわち科学および社会の利益と他方の価値,すなわち被験者・患者個人の益6)とは
緊張関係に立つ.前者,すなわち科学的知識の増大,将来の患者たちの益,開発・営業上の利益への欲求は,研究者,プロフェッショナル,
スポンサー,規制当局など多数者・行政のもので常に強大である.これに比べて,後者,すなわち具体的な被験者・患者の直接の益は,一個人
の一回限りのもので,前者に容易く妥協させられる.しかも,「よい薬を早く患者さんに」のスローガンが示すように,将来の患者たちの益と個々の
被験者・患者の益は,意識的・無意識的に混同されてきた.最大多数の最大幸福ないし功利主義の哲学に従うと,個人の幸福は将来の患者たち
ないし社会の福祉の前で旗色が悪い.医師・研究者は義務の衝突(1.4-1)で後述)によって引き裂かれるから,個々の被験者・患者の幸福について
の最良の保護者であることを原理的には期待できないかもしれない.
HIV母子感染予防のAZT臨床実験の例7)が示すように,医学研究の必要性や被験者募集の容易性と倫理との衝突から,先進国と発展途上国と
は対立関係に立つように見える.しかし,先進国にも低開発共同体は存在するから,この問題は発展途上国のみの問題ではなくあらゆる国々
および人々の問題であり,われわれも対岸の火事とみることはできない.
本稿で筆者は,具体的な被験者・患者の幸福という視点から,あるべき医学研究規範に照らしてエディンバラ改訂の意義を検討する.集団
倫理にも留意するが,個人倫理に優先させるべきではないと思う.その上で,臨床医学研究の一部である薬事法上の治験に対するGCP8),および,
ヒトゲノム・遺伝子解析指針など生命倫理関連の行政指針,ICHガイドライン9)などと比較しつつ,それぞれの問題点を指摘し,あわせて来るべき
医学研究法ないしは被験者保護法案の論点をも示したい(なお,以下,(1)には改訂の趣旨を,(2)にはその意義・評価や他の規範との比較を記す
ことにする).
1. 宣言の基本的性質
1) 適用対象行為の明確化(新宣言副題,A序文§1)
(1) 適用の対象となるべき行為につき,旧宣言は,被験者についての医生物学研究(biomedical research involving human subjects)としていた.
新宣言は,被験者についての医学研究(medical research involving human subjects)と変更し,併せて,個人特定可能の(identifiable)身体由来
試料(human material)および個人特定可能のデータについての研究を含むとの追加規定を置いた(A§1第2文).
(2) i) 東京改訂の際,臨床研究(clinical research)を医生物学研究に変更したのは,分子生物学や遺伝子工学研究を視野に入れたからだと
考えられた10).追加規定を見ると,新宣言は,人間のゲノム,遺伝子,体液,細胞,組織,臓器やそのデータなどを用いた疫学研究・調査,遺伝子
解析研究などを,人間についての医学研究の語に含めることを用語上明確にしたと考えられる.また,精子,卵子,胚についての生殖医学ないし
発生操作研究もそれらが身体由来試料の一部と考えられることから,医学研究に含まれると考えられる.
ii) 個人特定不可能な(unidentified, unlinked)試料の研究を対象外としたことで,自己に関する情報をコントロールする権利としてのプライバシー権
に照らし問題が残る11).
2) 医師への勧告から参加者に対する倫理指針へ(副題,A序文§1)
(1) 規範としての性格につき,旧宣言は,被験者についての医生物学研究に携わる医師への勧告(recommendations)としていた.これを,新宣言
は,被験者についての医学研究の倫理原則(ethical principles)であると変更した.
(2) 被験者の幸福(well-being)を科学および社会の利益に優先させる旨の規定(A§5)は,旧宣言にもあった(T§5およびV§4).新宣言は,
旧宣言におけるこれらの規定の趣旨をより重視し,医師への助言のための勧告から,倫理の原則へと,規範の性格を一段と鮮明にした.旧宣言
で名宛人は医師に限られプロフェッショナル・コードとしてのみの性格を有していたが,新宣言は,医師に限らず,医学研究を実施する「他の参加
者」をも名宛人に含むことを明らかにした(A§1).治験における治験協力者(省令GCP§2MのCRCなど)なども含まれることになる.
3) 基本原則の充実・強化
(1) 旧宣言は,序文,T基本原則,U臨床医学研究,V非治療的医生物学研究の4部構成になっていた.新宣言は,これを,A序文,Bすべての
医学研究に対する基本原則,C臨床医学研究に対する追加的原則の3部構成へと変更した.基本原則を大幅に充実させ,旧宣言序文第6
パラグラフにおける治療的研究と非治療的研究の区別規定を削除した.その結果,新宣言は,被験者についてのすべての医学研究に基本原則を
適用し,臨床医学研究に対してのみ追加的な保護規定を置くことにした.
(2) i) 新宣言が基本原則を大幅に充実させ,これを人間についてのすべての医学研究に適用すると規定したことは,人間の尊厳・個人の尊重の
観点から重要な意義を有するものと評価される.
ii) 治療的と非治療的という2つのカテゴリーの区別規定を削除したのは,被験者への直接の益が想定される研究と想定されない研究の実際上の
境界が曖昧な例が増えている実情を反映したものであろう.例えば,第T相の治験で患者が被験者とされる領域は少なくない.それでも,新宣言
は,Cを置いて,被験者への直接の益が想定される医学研究とされない医学研究の区別は維持しているものと考えられる.もともと,前者には患者
に特有の弱さの問題が内在し,後者には,被験者が主として健康人ではあっても社会的支配従属関係にあるという弱さの問題が内在する(A§8参照).
それぞれのカテゴリーにはそれぞれ特有の弱さの問題があり,特有の弱さに対応した追加的保護が必要である.全体の構成としては,被験者
への直接の益が想定されない医学研究についても内在する弱さの問題につき追加的保護規定を置くべきであると思われる.
4) 被験者の幸福と科学・社会の利益
4-1) 具体的患者の健康か人々の健康か(A序文§2,3)
(1) 医師の義務12)につき,人々13)(the people)の健康を守り促進する14)との命題(A§2)
を,私の患者(my patient)の健康を第一義とするとの命題(A§3)の前に置き,理論的に前者を後者に優越させるかのような順序になっている点で,
変更はない15).
(2) 医師には,眼前の患者に対して最善を尽くす伝統的義務の他に,これと原理的に矛盾する,仮説の検定を成功させる研究者としての新しい
義務がある.医学研究に携わる一人の医師は2つの義務に忠実であろうとすると原理的に義務の衝突が生じる16).
伝統的なこの記述の順序は,クラスとしての患者(複数)すなわち人々ないし社会の利益(公衆衛生)を私の患者(単数)の益に優越させている.
被験者の幸福を科学・社会の利益に優先させるとのA§5の規定と整合させるためにも,また,医学研究に対する社会の信頼,および被験者の
理解と参加を求めるためにも,この記述の順序は逆でなければならないと思われる.
4-2) 被験者の幸福か科学・社会の利益か(A序文§5)
(1) 被験者の幸福と医学の進歩との関係につき,新宣言は,科学・社会の利益が被験者の幸福(well-being)への検討に優越してはならない旨の,
旧宣言のT§5およびV非治療的研究に置いていた規定を整理した(A§5).
(2) この規定が新宣言の具体的な規定の中でどこまで貫かれているかを検証することが本稿の目的である.両者の衝突は,例えば,対照群の
選択におけるプラシーボ・コントロールの問題に先鋭に現れる(10.2)で後述).
5) 他の規範との関係(A序文§9)
(1) 新宣言は,医学研究に携わる研究者に対し,@医学研究に関する国内規範および国際規範の要求事項(requirements)に留意するよう呼び
かけ,A一国の倫理的,法律的,行政的要求事項が宣言の水準を引き下げたり排除したりすることは許されないとの規定を新設した.
(2) i) 上記(1)@に関して,国際人権自由権規約§7(自由な同意なしに科学的または医学的実験を受けない権利),国際人権社会権規約§15Ib(科学
の進歩およびその利用による利益を享受する権利),子どもの権利条約§12(意見表明権)などの条約上の諸規定は国内法である.ICHの諸ガイド
ラインは,技術的な文書で倫理規範ではないと説明されているが,重要な倫理規範を含んでおり国際規範の一種であると思われる.もっとも,
日米欧3極の製薬産業および規制当局6当事者の取り決めに過ぎず,治験の肝心な当事者たる研究者・医師および被験者・患者を代表する者は
参加していない.もちろん,条約としての拘束力はない.
ii) 上記(1)Aは,各国の規範の水準が宣言以下であることは許されないことを明確にしたものである17).宣言には法的拘束力はないものの,国内
規範の水準が宣言以下であってはならず,既存の国内規範が宣言の水準を下回る場合は修正されるべきことを意味する.当然,薬事法に基づく
GCP18)のうち被験者保護に関する新宣言の水準に達しない部分19)の修正や,新宣言の水準に達しない行政指針などの修正が必要になる.また,
医学研究に対する被験者保護法の立法においては,新宣言が最低基準になるものと考えられる.
iii) 新宣言は,国際規範の水準が宣言以下の場合につき規定していない.例えば,ICHの指針E10は,新宣言における現行の最善の治療法等の
保障規定と矛盾する部分がある(10.2)で後述).
2. 研究者の義務
1) 被験者の生命等を保護する医師の義務(B§10)
(1) 新宣言は,旧宣言のV非治療的研究§1に規定されていた,医学研究における被験者の生命および健康を守る医師の義務についての規定
を基本原則化し,かつ,生命・健康に加えて,プライバシーおよび尊厳の保護も医師の義務であると内容を充実させた.
(2) i) プライバシーと尊厳の保護が新たに加わったのは,ゲノム研究などが視野に入ったからである.尊厳は,自由や人権の源としての「人間の
固有の尊厳」(国際人権規約)を意味するから,この追加は意義深い.なぜなら,学問・研究の自由といえども人間の尊厳に反することは許されない
からである.
ii) この規定は,医学研究に携わる医師における義務の衝突にもかかわらず,被験者についての医学研究に対する社会・人々の信頼をつなぎ
とめるための核心として,具体的な被験者保護の義務が医師にあることを確認したものと思われる.
iii) 治験に対する第一義的責任は治験依頼者にあるとされ,GCP上(省令GCP§7W),治験責任医師の責任は,治験依頼者が作成したプロトコル
に同意する権限に止まり作成する権限はない20)(ただし,参加しない権限はある).また治験の依頼を受けた者のGCP遵守義務を定めた薬事法§
80の2W項違反には罰則規定がない(同§87K).プロトコルチェアの責任を負うことのない,半責任体制下の片手間仕事とも評し得る21)医師が,
被験者の生命・健康・プライバシー・尊厳を保護することは,原理的にも困難ではなかろうか.治験調整医師もプロトコルチェアの責任を負わない
から,GCPは新宣言B§10を満たしていない.また,被験者選定基準に関するデータ・マッサージなど治験責任医師らの科学的非行に対して
GCPが,守備範囲外ということであろうか,沈黙している点も,新宣言§10を満たしていないと思われる.
2) 医師が実施し得る条件(B§17,18)
2-1) リスクの評価(B§17)
(1) 旧宣言は,起こり得る危険性につき自信をもって予知できる場合以外は医師は実施を差し控えるべきであると規定していた(T§7第1文).
新宣言は,起こり得るリスクが十分に事前評価され,かつ,申し分なく管理可能であることを医師は確信するのでなければ実施をしてはならないと
規定した.また,実施をやめるべき場合として,旧宣言は危険性が潜在的利益を上回ることが分かったときと規定していた(T§7第2文).
新宣言は,これに加えて,肯定的かつ有益な結果(positive and beneficial results)の決定的な証拠(conclusive proof)があるときを付け加えた.
(2) これらは,医師のリスク評価の義務を強化したものと評価できる.実施をやめる義務の強化は,中間解析の結果による中止なども含んでいる.
2-2) 目的の重要性とリスクの比較(B§18)
(1) 旧宣言は,研究目的の重要性が被験者に起こり得るリスクと釣り合いがとれている(in proportion to)のでなければ実施してはならないと規定
していた(T§4).新宣言は,研究目的の重要性が被験者のリスクおよび負担を上回る(outweigh)ときのみ実施し得ると改訂した.
(2) これは,研究目的の重要性とリスクの比較検討を通じ医師の安全確認義務を強化したものと評価し得る.
3. 動物実験実施義務の緩和(B§11)
(1) 人間についての医学研究の基礎としての動物実験の実施義務について,旧宣言は,十分に行われた動物実験に基づくことを要求していた.
新宣言は,適切な場合(where appropriate)に行うことと改訂した.
(2) i) この改訂は,動物愛護の精神から不必要な苦痛を与える動物実験は許されないとの趣旨を反映している可能性もある.また,細胞の実験
など技術の進歩22)に伴い動物実験が不要になったときには不要という趣旨であれば当然の改訂と言えようが,その趣旨は必ずし
も明らかではない.
ii)動物実験から治験への移行に関し,反復使用毒性実験,依存性実験,変異原性実験,生殖に及ぼす影響実験,癌原性実験などが,治験と
並行し,または治験の終了後に行われることがある.動物実験から治験への移行のタイミングを早めることは,動物実験データを適切に評価
する人的体制が整備されない場合には,被験者の安全確認の上で危険である.
iii) 治験の前に実施されていない動物実験および実施しなくてもいい根拠を説明同意文書に注記するとしたら,素人には理解困難だから,最早
インフォームド・コンセントの守備範囲を超える.この問題はインフォームド・コンセントで処理すべき問題ではないと思われる.
4. 倫理審査委員会の強化(B§13)
1) 独立委員会から倫理審査委員会へ
(1) 旧宣言は単に「委員会」と呼んでいたが,新宣言は「倫理審査委員会」と名称を変更した.
(2) これは,新宣言が倫理審査の基準であることを端的に明確にしたものと評価し得る.委員会は,医学研究の倫理性のみならず科学性をも,
すなわち医学研究の完全性〈インテグリティ〉を審査する.にもかかわらず,倫理審査委員会と名付けたことは,A§5の規定と整合させ,倫理性を科学性の上に
位置付けたものと考えられる.
2) 独立性の強化
(1) 旧宣言は,研究者およびスポンサーからの独立を規定していたが,新宣言は,他のあらゆる種類の不当な影響力からも独立でなければ
ならない旨追加規定を置いた.
(2) i) 委員会に医療機関の管理職がメンバーに入っている場合には管理職からの影響力の行使の排除が問題になる.人事に影響力を行使し
得る管理職はメンバーから除外すべきであろう.
ii) 医学研究が多施設で行われる場合に,他の施設がプロトコルを妥当と認めていれば一施設の倫理審査委員会はそのプロトコルで参加するか
否かの選択しかなく,審査権は形骸化する.例えば,プロトコルで定められた検査の間隔では安全性に問題ありとの審査結果であっても,
プロトコルの変更が出来ないとすれば,一施設のみ検査の間隔を短くするなど一施設の安全のみ強化することで対応し参加する道しかない.
しかし,それでは当該施設の安全性データは他の施設より安全と出る可能性があるから,医学研究全体のデータの質は低下する.治験は,通常,
多施設で実施されるから,治験調整医師の実質的権限を強化するなどしなければ,個々の施設の倫理審査委員会は独立した審査権を行使する
ことはできないことになって,新宣言のB§13と衝突することになる.
3) 権限の拡大
3-1) プロトコル承認権
(1) 新宣言は,プロトコルに対する検討,論評,指導の権限(旧宣言)に加えて,適切な場合には(where appropriate)承認権を認める規定を新設した.
(2) 当然,委員会は,不承認または中止の権限も有することになる.
3-2) 継続モニター権(研究者のモニター情報提供義務)
(1) 新宣言は,進行中の医学研究に対して,委員会にモニターする権限,および,これに対応して,研究者に重篤な有害事象などのモニター情報を
委員会に提供する義務を,それぞれ認める規定を新設した.
(2) GCPで治験審査委員会は,定期報告を受ける権限を規定している(省令GCP§31).新宣言のこの規定上,GCPは不十分であり修正を要すると
思われる(省令GCP§31など).
5. 経済的関係の透明化(B§13)
1) 被験者と利害衝突のおそれのある情報
(1) 新宣言は,倫理審査委員会の審査に供するため,研究者に対し,資金提供,スポンサー,関連組織との関わり,その他起こり得る利害衝突
についての情報を倫理審査委員会に提供することを義務付ける規定を新設した.
(2) i) スポンサーから医療機関および研究者には委託研究費,ケースカード作成代,論文執筆代,謝礼,奨学寄付金,検査費などさまざまな
名目の金銭その他の経済的利益が提供されている.スポンサーと医療機関および研究者個人との間の経済的関係はバイアスの原因となり得る23)
ことから,医学研究の質を向上させるため,透明性を求めたもので,重要な意義がある.スポンサーとの知的財産に関する取り決めがある場合
には,その情報も含まれる.
ii) GCPの「治験の費用」(省令GCP§10,§32T@)は,用語,概念とも狭すぎるから,修正が必要である.
2) 被験者参加への経済的誘因に関する情報
(1) 新宣言は,倫理審査委員会の審査に供するため,研究者に対し,被験者に対する参加への経済的誘因に関する情報の提供を義務付ける
規定を新設した.
(2) i) 被験者の参加への同意における,インフォームド・コンセントの自発性を審査する点に意義がある.
ii) 治験のいわゆる空洞化対策の有力な手段として,患者に交通費の名目で実費ではない報酬を支払う施設が増えている.当該治験の重要性
・実験性・危険性などに照らしその額が支払われなければ合理的な患者・健康人は参加しないであろう大きさの場合には,自発性を損なうもの
として同意は無効と判断されなければならない.
6. 利益の社会還元メカニズム
(1) 人間のゲノム遺伝子解析研究など身体由来の試料に基づく医学研究においては,無償提供の原則が貫かれる.他方,そのような医学研究は
知的財産権を生む可能性がある.にもかかわらず,新宣言は,医学研究から生じる利益の社会還元のメカニズムについて沈黙している.
(2) 例えばヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針は,無償提供の原則を貫き,被験者に知的財産権が帰属しない旨説明するに止まる.
しかし,利益の社会還元のメカニズムを構築せずインフォームド・コンセントの問題として処理するのは全体として公平さを欠く24).宣言は,一定の
医学研究について利益の社会還元のメカニズムを構築する義務を規定するべきであると思われる.
7. 研究情報の公開
1) 医学研究デザインの公的入手可能性(B§16第3文)
(1) 新宣言は,すべての医学研究デザインは公的に入手可能であるべきとの規定を新設した.
(2) i) 医学研究の情報公開に照らし,B§27とともに,重要な意義がある.
ii) インフォームド・コンセントに関連して,被験者の,企業秘密部分を除くプロトコルの閲覧・謄写を求める権利25)の倫理的根拠になると思われる.
iii) 被験者募集広告の実情は,治験のデザインにつき,対象疾患,被験者選定基準などが含まれるのみで,具体的な治験の意義,実験性,
危険性などの重要な情報は提供されない.被験者募集広告は「治験の入り口への案内」であり重要な情報の提供は治験責任医師などが参加の
意思ある者に行えば足りるとの考え方で行われている.しかし,消費者に対する広告の強い影響力,説明同意文書における標準的治療法等の
不公正な扱いという実情を前提にすると,治験デザインの情報を公平に提供するべきで,そうでなければ薬事法§68に違反する疑いがある26).
iv) GCPは,デザインの公開につき沈黙しているから,規定する必要がある.
2) 医学研究結果の公表(B§27)
(1) 研究結果の刊行につき,旧宣言は,医師に対し,結果の正確性を守ることを義務付け,盛られている原則に従っていない研究報告は刊行の
ために受け入れられてはならない旨規定していた(T§8).新宣言は,これを充実強化し,@著者のみならず発行者の倫理的な義務とした上,
A非有効,非安全などネガティヴな結果も,ポジティヴな結果と同様に,刊行するかまたは他の方法で公的に利用可能にすることを義務付け,
B刊行において資金源,関連組織との関わり,その他全ての起こり得る利害の衝突を明示するよう義務付けた.
(2) i) @は発行者にとっても倫理的義務であるとした点が評価されるべきである.Aは,第1に,結果の公表を義務付けたこと,第2に,ネガティヴ
な結果についても公表を義務付け,出版バイアス(publication bias)を是正しようとするもので,意義深い修正である.
ii) スポンサーと医療機関との間の医学研究委託契約には研究結果公表制限条項が設けられることがほとんどである27)が,Aは,研究者・医師の
スポンサーに対する,結果を公表する自由,被験者・患者の研究者・医師に対する,結果公表を求める権利28)を認める倫理的基礎になるものと
思われる.
iii) GCPは,結果公表につき沈黙しているから,規定する必要がある.
8. 研究結果から被験者が益を得る相当な見込み(B§19,C§30)
(1) 新宣言は,新たに,@「医学研究は,研究が行われる対象集団が,その研究の結果から利益を得られる相当な見込みがある場合にのみ
正当化される」と規定し(B§19),さらにA「研究終了後,研究に参加したすべての患者は,その研究によって最善と証明された予防・診断・治療
方法を利用できることが保障されなければならない」と規定した(C§30).
(2) i) これらは,スポンサー国たるアメリカでHIV母子感染の標準的予防法が確立した後にサブサハラ,タイなどで行われたzidovudine AZT短期
間療法のプラシーボ対照臨床実験に対する批判29)に応えた,意義深い規定である.特にAは,CIOMS指針30)
8「低開発共同体の人を対象とする研究」の注釈において原則として表明されていたものを,例外を認めない形で規定したものである.
ii) GCPは,研究終了後の利用について沈黙しているから,これを規定する必要がある.
9. 医学研究の敢行
1) 敢行されるべき医学研究の目的(A§6第2文)
(1) 新宣言は,証明された(proven)最善の予防法,診断法,治療法といえども有効性,効率,利用しやすさおよび品質を目的とする研究を通じて
絶えず挑戦されなければならない旨新たに規定した(A§6第2文).
(2) i) 新しい方法が,有効性のみならず,効率,利用しやすさ,品質の目的からも既存の方法と比較検討するべく医学研究が敢行されるべきことを
認めたものである.
ii) 実薬対照デザインの非劣性ないし同等性試験がICHで批判される.ただ,ICHでは非劣性ないし同等性とは専ら有効性をめぐっての概念の
ようである.比較検討が有効性をめぐってのものに限られないのであれば,例えば利用しやすさの点で優越性の証明を目的とする試験が
デザインされ得るから,サンプルサイズの問題はあるにせよ,実薬対照,即,非劣性ないし同等性試験とはならず,批判は根拠を欠くことになる
ように思われる.
2) 敢行する自由とその限界(C§32)
(1) 旧宣言は,新しい診断・治療法の実施につき,救命,健康の回復または苦痛の軽減になると医師が判断する場合に敢行する自由があると
規定していた(U§1).
新宣言は,@「証明されていない,または新しい,予防・診断・治療法」の実施につき,A「証明されている方法が存在しない場合,または効果が
なかった場合」に,B「患者のインフォームド・コンセントを得て」,C救命云々の旧宣言の要件を満たす場合に敢行する自由があるとし,D「可能
であれば,これらの方法はその安全性と有効性を評価するために計画された研究の対象とされるべきで,すべての例において新しい情報は記録
され,適切な場合には刊行されるべきであり,宣言の他の指針は遵守されるべきである」と新しく規定した.
(2) i) @により,「新しい」以外に「証明されていない」方法を新たに医学研究の定義に追加した.「予防…」の追加は,予防法を開発する医学研究
を想定したもので,新しい予防法のための多くの医学研究が行われている実情に合わせたものである.
ii) Aのうち「証明されている方法が存在しない…」には,誰がどのような基準でその存在の有無を判断するか,および証明の質・程度如何の問題が
ある(10.2)で後述).
iii) 「または効果がなかった…」とあるから,証明されている方法が存在している場合は,それを実施して効果がなかった場合に初めて敢行できる
ことを定めたもので,きわめて重要な修正である(13.で後述).
iv) Dだと,プロトコルおよび倫理審査システムを核心とする実施体制が必ずしもすべての医学研究の条件ではないことになり,被験者・患者の人権
を守る観点から問題があると思われる.
3) 医学研究を診療に組み合わせ得る条件の緩和(C§28)
(1) 旧宣言は,医師が臨床研究を診療に組み合わせることができる条件として「患者のために診断および治療において価値があるという可能性の
ゆえに正当化される場合に限られる」と規定していた(U§6).
新宣言は,@「予防において価値がある」を付け加え,A「患者のために(for the patient)」を削除し,B追加的保護の基準が適用される旨を規定
した.
(2) Aは,@の修正に伴う削除,という趣旨であろうか.しかし患者または健康人(予防の場合)すなわち個人のための予防・診断・治療の可能性の
要件を不要とし,およそ予防・診断・治療の可能性さえあれば医学研究を認める趣旨とするなら,不当な変更ではなかろうか.
10. 対照群の選択
1) 対照群の適格性(C§29第1文,§30)
(1) 旧宣言は,@新しい方法は現行の最善の診断法・治療法と比較されるべきであること(U§2),A医学研究における患者は現行の最善と
証明されている診断法・治療法を受けることが保障されるべきこと(U§3第1文)を規定し,最善の医療を受ける患者の権利を保障していた.
新宣言は,@については,これをほぼ踏襲した(C§29第1文 なお,現行の診断法・治療法の他に予防法を付け加え,利益,危険〈ハザード〉,不快との
比較との表現を,利益,危険〈リスク〉,負担および有効性との比較と表現を変更している).しかし,Aについては,研究終了後にその研究によって最善と
証明された予防法・診断法・治療法を利用できること(access)を保障するべきである旨変更した(C§30).
(2) i) @に対しては,プラシーボ対照はおろか実薬対照とも矛盾するとの意見がある31).
ii) Aで新宣言が最善と証明されている方法につき研究中の保障をしなかったのは,研究中のプラシーボ対照と整合させたためと考えられる.
しかし,@と整合しない上,予防法…治療法そのものを保障せず,研究終了後のそれへのアクセスを保障する規定に変え(8で前述)たのは,
研究終了後の保障が進歩であることは間違いないものの,研究中の保障規定を削除した点で最善の医療を受ける患者の権利を一歩後退
させるものと批判されなければならない.新宣言は,修正されるべきである.
2) 対照群のデザインにおけるプラシーボの許容性(C§29第2文,§32)
(1) プラシーボ対照群設置の許容性につき,旧宣言は,現行の最善と証明されている方法の保障規定に続けて,証明された診断または治療方法
が存在しないときは非活性プラシーボの使用を除外するものではない旨規定していた(U§3第2文).
新宣言は,現行の最善と証明されている予防・診断・治療法に対して新しい方法の利益・負担・有効性がテストされるべき旨の規定(C§29第1
文)に続けて,証明された予防・診断・治療法が存在しないときはプラシーボまたは無治療の使用を排除するものではない旨の若干の変更を加えた.
(2) プラシーボ群等設置が許容される条件について,新宣言は明確ではない.C§29の第1文と第2文を整合性のある規範として理解するとすれば,
第1文を基軸にして第2文を厳格に捉える他はない.医学研究を敢行する自由とその限界を規定する§32と併せて読めば,新宣言は,証明されて
いる方法が存在しない場合または効果がなかった場合にインフォームド・コンセントを得,救命,健康の回復または苦痛の軽減になると医師が
判断すれば,許容されると規定しているものと解される.
(3) しかし,これに尽きるものではなく,検討されるべき主な論点は少なくない.整理すると,次の通りであると思われる32).
<第1. 既存の方法についての論点>
@既存の方法の本質をどう表現するか.
既存の方法は,a有効であると証明された方法,b有効であると一般的に承認されている方法,c標準的方法などと用語が異なる.有効性のみが
問題とされることはないとすると,cが素人分かりがいいが,ごまかされやすい用語であり,十分な検討が必要である.
A既存の方法の存在についてその証明の質および程度をどこまで要求するべきか.
再現性のある複数の比較臨床実験成績によって証明されていなければ証明されたと言えないとするとプラシーボ対照の濫用に根拠を与える
ことにならないか.そこまでの証明はない場合でも,証明の質・程度が問われ,質・程度如何によってプラシーボ対照は許されないのではないか.
また,既存の方法はプラシーボ対照によって有効と評価されているものに限るべきであろうか.
B有効と証明された方法が存在することを誰が如何なる基準および方法で認定するか.
各施設レベルの倫理審査委員会ではその認定は事実上困難だから,その守備範囲とせずに中央の審査システムが証明の質・程度・段階等を
含めて認定する制度が必要ではないか.
<第2.プラシーボ対照設置についての論点>
@研究される症状の重さ
死または不可逆の障害を引き起こす疾病の場合にプラシーボ対照の使用が予防ないし病気の進行を遅らせる薬の使用を拒否することになる
場合には,プラシーボ対照の使用は排除される.重大なまたは苦痛を伴う症状が特徴の疾病について研究される場合は,代替的デザインが
検討されるべきである.では,軽い症候を引き起こす症状が研究される場合は可能か.ほとんどリスクを伴わない場合33)は可能であろうが,どの
レベルのリスクまでなら許されるであろうか.
A既存の対照薬に反応しない集団
多くの薬はすべての患者には有効ではなく,既存の薬に反応しない集団はプラシーボ対照デザインの研究に参加しても利益は損なわれないで
あろうか.
B既存の治療法の副作用
一般的に用いられている治療法のいくつかは重い副作用があり,有効であってもプラシーボ対照を正当化する可能性があるのではないか.
C研究期間の長さ
期間が必要最小限になっているか.他の代替的デザインが可能か.なお,中間解析が無効または危険を証明するときは研究を終了させる義務
が研究者に生じる.
D有効と証明された方法が存在する場合は,プラシーボ対照は許されないのではないか.
E有効と証明された方法が具体的患者のレベルで有効でなかったかもしくは反応しなかったか,または重い副作用を伴うことで使えない場合に
初めて例外としてプラシーボ対照が許容されるのではないか.
<第3. インフォームド・コンセントによる処理の論点>
@平等権の観点から,インフォームド・コンセントは以上の検討のうち何の欠如を埋め合わせることが倫理的に可能か.
Aインフォームド・コンセントの前提として第1の論点が整備されているか.
Bインフォームド・コンセントのプロセスにおいて第2の論点が公正に実施されているか.
(4) これらは,個人倫理対集団倫理の問題である.無効な薬が誤って有効と判断されてしまう消費者のリスクと有効な薬が誤って無効と判断され
その薬による利益を享受できない生産者のリスクが関係する34).また,個人の生命・身体の安全に対する権利,平等権,最善の医療を受ける権利,
個人のためのケアを求める権利,自己決定権が複合する困難な問題である.
(5) 死亡や回復不能の障害のような重大な障害が生じないならインフォームド・コンセントを条件としてプラシーボ対照を許容するICH-E10指針は,
科学・社会の利益をプラシーボ群の被験者個人の益に優越させており,新宣言に違反するように思われる.
11. 被験者(B§20,§21)
(1) 新宣言は,被験者がボランティアであり,かつ,インフォームド・コンセントを与えた参加者でなければならない(must)ことを原則化した(前段は,
旧宣言V§2に規定されていたもの).また新宣言は,被験者の権利についての旧宣言T§6をほぼ踏襲し,患者情報の機密性に対する注意を
新しく追加した(B§21).
(2) i) 言うまでもなく,重要な確認規定であるが,この原則にもたれかかって医学研究の土台となるべきさまざまな基盤整備をしないことの免罪符に
この規定が使われてはならない.
ii) 宣言は,公平な補償を受ける権利(答申GCP3-14,CIOMS指針13など参照),治験責任医師が主治医に通知する義務(答申GCP6-2-3-3参照
),記録の長期保存(GCPの5年は不当に短い)も規定するべきである.
12. 一般的な被験者選定条件
1) 社会的弱者(A序文§8)
(1) 新宣言は,医学研究の中には特別の配慮が要請される弱者を被験者とする場合があることを新たに規定した.弱者とは,経済的,医療的に
恵まれない者,同意能力を欠く者,強制されて同意する者,研究から個人として益を受けない者,医学研究が診療と結びついている者である.
(2) 問題は,これらの社会的弱者について具体的にどのように保護するメカニズムを設けているかである.例えば,被験者への直接の益が想定
されない医学研究に対する追加的保護の規定を宣言は設けるべきである.
2) 同意能力を欠く者を代行者の同意を得て選定する条件(B§24第2文)
(1) 新宣言は,法的無能力者,身体的もしくは精神的に同意ができない者,または法的に無能力な未成年者を,被験者として参加させる場合,
法的に資格のある代行者の同意を得て参加させ得る条件として,@研究がこれらのグループ全体の健康を増進させるのに必要であり,かつA
研究を法的能力者で代替して行うことができない場合に限る旨を新たに規定した.
(2) これは,同意能力を欠く者がややもすると他者(たち)に搾取されてきた歴史を踏まえた重要な修正である35).GCPは「被験者と
することがやむを得ない場合」としか規定しておらず(省令§44A),宣言の条件を満たしていない.修正されるべきである.
13. 具体的な被験者選定条件
(1) 新宣言は,適正な被験者選定を受ける権利について規定していない.被験者選定・除外条件を,インフォームド・コンセントの説明事項にも
掲げていない(B§22).
(2) 具体的被験者の選定にあたっては,@個々具体的な被験者ごとの病歴,診断像,予後など個別化された配慮が必要であること,A既存の
方法に反応し効果をあげている患者は原則として参加させないこと(C§32「証明された予防・診断・治療法の…効果がなかった場合」参照),B
主治医と相談をしたことの確認を規定するべきである.
このうちAで,ある程度改善するに止まるときに,なお改善の見込まれる新しい方法があれば,例外として,選定が許されるものと思われる.
14. インフォームド・コンセント
1) インフォームド・コンセントの理念的基礎
(1) 医学研究の概念の拡大に伴い,インフォームド・コンセントにおける同意には,@自らの身体に加えられる侵襲に対する自己決定権の行使,
A自己に関する情報をいつ,どのように,どの程度まで他者に伝達するかを自ら決定する,自己に関する情報をコントロールする権利としての
プライバシーの権利の行使,B秘密性,完全性,利用可能性を内容とする情報セキュリティへの権利の行使の,それぞれの側面を備えている.
(2) i) 宣言は,これら同意の理念的基礎を序文に掲げるべきである.
ii) Aに関して,同意を撤回した場合,撤回前のデータを引き上げる権限が含まれるかどうか,被験者個人の権利を尊重するとの口実でデータ・
マッサージが行われ全体としてのデータの質を低下させる恐れがある場合にはそこまで認めるべきでないのではないのか,個人を特定できる人間
由来の試料・データの場合はどこまで認めるか,規定の検討が必要と思われる.
2) 説明事項の拡大(B§22,§31第1文)
(1) 新宣言は,説明事項として新たに,@資金源,起こり得る利害の衝突,研究者の関連組織との関わりの説明を追加し,A参加を断り参加の
同意を撤回する権利はいつでも「報復なしに」(without reprisal)有する旨を説明するようにと修正し,Bケアのどの部分が研究に関連しているかを
説明すべきことを追加した.
(2) i) @はスポンサーと医師・研究者との経済的関係を透明化する改革(上記5.1)参照)の一環である.この点,GCPの修正が必要である(省令GCP
§51T).
Bは,説明同意文書の実務上曖昧でミスリーディングな例が多いことを踏まえたものである.
ii) その他,宣言は,説明事項として次を含めるべきである.
a 証明されている既存の方法との関連での研究の意義
b 一般的な被験者選定条件
c 具体的な候補者が,第1,一般的な被験者選定条件に該当すると判断される根拠,第2,具体的な被験者選定条件に該当すると判断される根拠
d プロトコルの開示を求める権利があること
これは,治験薬概要書やプロトコルと説明同意文書の等価性が保持されない不公正な移し替えがきわめて多い実情に鑑みての権利である36).
3) 被験者が理解したことの確認(B§22)
(1) 新宣言は,新たに,被験者からの同意を得る前に「被験者が与えられた情報を理解したことを確認」しなければならない旨追加した.
(2) インフォームド・コンセントにおける被験者の理解の要素を明確にした意義深い修正である.この点,GCPの修正が必要である(省令GCP§50T).
4) 文書同意が得られないとき(B§22)
(1) 新宣言は,新しく,文書による同意が得られないとき,同意は正式な文書に記録され,証人によって証明されなければならない旨規定した.
(2) 同意の方式をより厳格化したものと評価できる.
5) 依存関係・強制下同意するおそれあるとき(B§23)
(1) 被験者が医師と依存関係にあるか強制下に同意するおそれがある場合について,説明はそうした関係から独立した医師がなすにつき,
新宣言は,研究の内容をよく知っている(well informed)医師の要件を追加した.
(2) 説明者の要件をより厳格化したものと評価できる.どういう場合にそのような追加的な保護が必要かを整理し,規定することが望ましい.
6) 法的能力を欠く者のアセント(B§25)
(1) 未成年の子どものように法的能力を欠くとみなされる候補者が,研究への参加に関する決定にアセントすることができる場合には,研究者は,
法的資格のある代行者の同意に加えて,被験者のアセントを得なければならない(must)旨新宣言は新たに規定した.
(2) アセント(assent)とは,従うこと(compliance)の意であるが37),具体的な概念は必ずしも明らかではない.本人の拒否が治療法を受けることを
不可能にし,かつその治療法は当該医学研究の場面でなければ利用できない場合以外は本人の拒否権を尊重するとの説明38)が参考になるで
あろうか.
7) 代行者の同意も事前の同意を含む本人の同意も得ることができない研究を実施できる条件(B§26)
(1) 新宣言は,新たに,「代行者の同意または本人の事前同意(advance consent)を含めて,同意を得ることができない個人を被験者とする研究は,
インフォームド・コンセントの取得を妨げる身体的/精神的状態がその研究対象集団の必然的特徴であるときに限って行われるべきである.
プロトコルには,審査委員会の検討と承認を得るために,インフォームド・コンセントを与えることができない状態にある被験者を対象にする特定の
理由が述べられるべきである.そのプロトコルには,その個人または法的資格のある代行者から,引き続き研究に残ることに対する同意を
できるだけ早く得るべきことが記述されるべきである.」と規定した.
(2) 緊急状況下における救命的医学研究などが想定されているものと思われる.しかし答申GCP7-2-4に比べて要件が十分に厳格でないと思われる.
おわりに
個人としての被験者・患者の権利を尊重し(respect),保護し(protect),充足し(fulfill),促進する(promote)観点から,倫理審査委員会の強化,
経済的関係の透明化,研究情報の公開,研究終了後の利用,医学研究を敢行する自由の限界,同意能力を欠く者を代行者の同意を得て選定
する条件,インフォームド・コンセントの強化などはエディンバラ改訂の大きな成果である.しかし,プラシーボ対照の許容限界の曖昧さ,公平な
補償を受ける権利規定の不在,具体的な被験者の選定条件規定の不在,利益の社会還元メカニズム構築義務の不在などは,これからの検討
課題である.とりわけ,プラシーボ対照の許容される限界の問題は,個人倫理が集団倫理と直面するやっかいな論点である.被験者の幸福は,
彼または彼女の,生命・身体に関するものと,意思ないし自己決定に関するものが分かち難く結びついているが,例えば,デザインに統計的な
欠陥があり消費者リスクを増すような治験を受けた場合,被験者の自己決定が害されるのではなかろうか.
多数の被験者が参加する大規模な予防法の臨床実験や人間のゲノム研究が行われる時代に,エディンバラ改訂は,医学研究法ないしは
被験者保護法案を検討するための格好の論点をも提供しているように思われる.
謝 辞
この原稿の仕上げに際しては,主として医学の観点から東京逓信病院参与,医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構顧問,医学博士
内藤周幸先生から,多くの貴重な助言と示唆を頂いた.ここに記して心からの感謝と敬意を表したい.
参考文献・注
1) ヘルシンキ宣言は,1947年のニュルンベルク綱領を精神疾患の新治療法についての本人同意の問題,治療的・非治療的の区別の問題で
医療現場に適用しやすくして,1964年6月のヘルシンキにおける世界医師会第18回総会で採択された.後,1975年東京改訂で実験計画書および
独立した委員会の制度が新設されるなど大幅に改訂される.その後は,1983年ヴェニス改訂で未成年者本人の同意につき,1989年ホンコン改訂
で委員会の独立性につき,1996年サマーセットウエスト改訂でプラシーボ対照群の使用につき,それぞれ部分的に改訂された.
2) 2000年10月23日朝日新聞社説.
3) 糸氏英吉発言.特別座談会「ヘルシンキ宣言の改訂をめぐって」.In:第52回世界医師会総会.日本医師会雑誌 2001;125(3):349-63.
4) Vastag B. Helsinki Discord? A Controversial Declaration. JAMA 2000;284(23):2983-5.
5) 前掲注3座談会坂上正道発言
6) 生命・身体・意思(自己決定)の総体なので,利益では狭すぎるから,益と表現してみた.
7) 佐藤恵子.途上国で行われたHIV母子感染の予防試験とそれをめぐる議論.臨床評価 1999;26(3):381-5.
8) Good Clinical Practice新医薬品の臨床試験の実施に関する基準は,1996年改正薬事法に基づく97年3月の答申GCP,省令GCPなどよりなる.
なおICH-GCPは96年5月に合意に達した.
9) International Conference on Harmonization医薬品規制ハーモナイゼーション国際会議は,日・米・欧3極の薬務当局および医薬品産業代表の
6当事者からなり,第1回会議は1991年に開かれ,以後,品質,安全性,有効性,規制情報の分野でハーモナイゼーション促進を図る活動が
行われてきた.
10) 砂原茂一.In:臨床医学研究序説.医学書院;1988:151.
11) 唄 孝一,宇都木伸,佐藤雄一郎.ヒト由来物質の医学研究利用に関する問題(下).ジュリスト 2001;1194:96.
12) 旧宣言における「使命」missionの語を,新宣言は,より倫理原則に相応しい「義務」dutyに修正した.
13) peopleを(動物と区別して)人間(human beings)の意(ランダムハウス英和辞典)とすると,ここでの記述の順序は,一般論から入ったものと理解
することもでき,(2)における筆者の論述は当てはまらないことになるが,果たして,人間の意で書かれているのかどうか定かではない.
14) 新宣言は「促進する」promoteを新たに挿入した.疫学,予防などを明確に視野に置いたものであろう.
15) 光石忠敬.個々の被験者や患者の自由と安全にとってヘルシンキ宣言の1975年改訂とは何か.臨床評価 1976;4(1):155-9.
16) 光石忠敬.「臨床試験」に対する法と倫理.In:内藤周幸,編.臨床試験−医薬品の適正評価と適正使用のために−.薬事日報社;1996:129.
17) 前掲注3の座談会で「国内法が優先する」との発言は,この点の誤解に基づくのではなかろうか.
18) 答申GCPは,治験の原則で,「治験は,ヘルシンキ宣言に基づく倫理的原則…を遵守して行われなければならない」と規定している(3-1).
19) 具体的には後述する.なお光石忠敬.新GCPの主な特長と基本的な問題点.In:日本医事法学会,編.年報医事法学 1999;14:187-92参照.
20) (1)光石忠敬.治験の倫理とは何か−近年の動きを素材に治験審査のための治験の倫理を考える−.Biomedical Perspectives 1999;8(4):381-8.
(2)同.治験における被験者の人権を考える.1997;精神医学レヴューNo.25向精神薬の開発をめぐって:82-91.
21) 注20前掲論稿
22) 厚生科学審議会の厚生大臣に対する1998年12月16日答申「手術等で摘出されたヒト組織を用いた研究開発のあり方について」
23) Sterfox HT.光石忠敬,訳.カルシウム・チャネル拮抗剤論争における利害の衝突について.臨床評価 1999;26(3):505-15.
24) 米本昌平.ヒトゲノム研究に関する基本原則−その意味と問題点.ジュリスト2001;1193:43は,利益の1〜3%の拠出を提案するHUGO倫理
委員会の考え方を紹介している.
25) 注20前掲論稿(1)
26) 光石忠敬.被験者募集広告の問題点.薬害オンブズパースン機関紙11号.2001.5.1.
27) 光石忠敬.臨床試験結果公表制限特約と試験者の法的責任.臨床評価 1973;12(3):137-8.
28) 光石忠敬.学会発表を求める権利・学会発表をする権利.薬害オンブズパースン機関紙6号.1999.9.1.
29) Levine R.J,他.座談会「医薬品開発のグローバリゼーション時代における臨床試験の倫理」.臨床評価 1999;26(3):341-80.
30) 光石忠敬,訳.CIOMS被験者に対する生物医学研究についての国際的指針.臨床評価 1994;22(2,3):261-97.
31) Temple R, Ellenberg S.S. Placebo-controlled trials and active-controlled trials in the evaluation of new treatments. Ann Intern Med 2000
;133(6):455-70.
32) 光石忠敬.プラシーボ対照と被験者・患者の人権.臨床精神薬理 1999;2(2):137-44. および同.がん診療と倫理−臨床研究における
プラシーボ対照の倫理性について−アメリカ医師会の指針案をもとに考える.In:Second edition臨床腫瘍学CLINICAL ONCOLOGY I・II(日本臨床
腫瘍学会,編).癌と化学療法社;1999:781-8.なお1996年アメリカ医師会・倫理司法問題諮問委員会の指針案
Ethical Use of Placebo Controls in Clinical Research参照
33) 注30前掲CIOMS指針アネックス2は,ほとんどまたは全くリスクを伴わないこと,および,目的達成に重要な貢献をすること,との合理的な期待
という根拠によって正当化されなければならないと明記している.
34) 本誌別論文 小野俊介.ICH-E10ガイドラインにおける倫理とヘルシンキ宣言について.参照
35) 光石忠敬.被験者の権利の擁護.In:日本医事法学会,編.年報医事法学15.日本評論社;2000:61-9.
36) 注20前掲論稿(1)
37) BLACK’S LAW DICTIONARY
38) Alzheimer Disease CenterのGuidelines for Addressing Ethical and Legal Issues in Alzheimer Disease Research:Position Paper(1994)
におけるPosition3:ROLE OF FAMILIES AND PROXY DECISION MAKERS IN INFORMED CONSENT PROCESS
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Vol.28, No.3, Jun. 2001「ヘルシンキ宣言2000年改訂とグローバリゼーション時代の倫理」目次へ