編集後記


臨床評価 1995; 23(1): 179より

 「移植や人口臓器の仕事に携わるパイオニアたちに蔓延している価値観」としてフォックスとスウェージーが「失敗を意に介しない勇気」courage to failを「とりわけ厄介と思う」と語っている.訳者の酒井忠昭医師から送って頂いた「移植との決別」みすず1995年4月第409号(酒井・恒吉共訳)でこのことばを知り、日頃、科学と社会の接点の諸問題を考えてきた科学の門外漢の一人として大いに考えさせられた.フォックスらによれば、「この気風は、昔からの米国の開拓者のものであり、勇敢で先駆的で、冒険を意に介さず、楽天的で断固としたものである.しかし、それはまた「死は敵である」という好戦的な視点をも含んでいる.つまり、なんとしてでも生命を維持しようとする、救命を至上とする熱意でもあり、限界を受け入れることを厳しく拒否する傲慢とも思える意思だ.この考えが患者に苦痛と悲嘆を強いて、しかもそれを繰り返し隠蔽する結果をもたらしている」と.

 本号冒頭の木村哲レヴュー「抗HIV薬評価・・・」によれば、ddIの臨床評価において、プロトコル外の使用がFDAによって許可され、7806名の患者に使用されて27名がddIの副作用と思われる膵炎で死亡した.正規の臨床試験でも膵炎の副作用は17%に出たものの死亡例はなかったという.プロトコルは、もともと科学者たちの内部規約という性格しかなかったものだが、独立審査システムによる審査などを通じて科学と社会の架け橋の役割をも果たす公的なものに変質していると思う.無論、プロトコル無視は科学の自殺に等しい.患者団体の圧力に行政が妥協し、科学がそれに追随したのかもしれないが、現場では、ひょっとすると、inclusion criteriaのCD4以下の患者でも効くかも分からない、要するにやってみなければ分からないという、科学の、一種のsomething new-ismで敢行したのだろうか.この間の事情をもっと知りたいものである.

 清水直容・渡部敏雄共訳「・・・性差の試験と評価に関するガイドライン」を読むと、妊娠可能な女性の被験者としての参加を実現させるために、動物における生殖能に対する薬物の影響の研究の現況や催奇形性についての情報までインフォームド・コンセントの守備範囲とし、潜在的な胎児毒性の危険性について動物での生殖毒性試験は妊娠可能女性への大規模な曝露の前までに終了していればそれでいいという.だが、ちょっと待てよと考える.インフォームド・コンセントないし自己決定権は、科学がその守備範囲をきっちり守った上で個人の決定に委ねるというものではなかったろうか.科学が責任逃れの口実に自己決定権を濫用していないか.それに、自己決定権を行使できない胎児のこと、次の世代に対する背負い切れない責任のことが忘れられていはしないだろうか.

 上田慶二報告「・・・GCPの現状と問題点」は、アンケート調査結果を踏まえた日本の現状報告だが、83%の施設の治験審査委員会で外部委員を加えてはいないこと、非専門家委員の大多数は事務長など事務職員であること、1品目の平均審査時間が10分以内とする施設が約半数であることなどが分かったという.西欧の歴史は、科学共同体の内部にあったpeer reviewというメカニズムがinstitutional review boardに発展してきたことを教えている.それは、科学が外部に対する責任を負う、ないしは負わざるを得ないという科学と社会の関係の変化があったことの現れでもあろうか.独立かつ公正な審査システムによる審査を受ける権利は被験者の基本的人権の一つだと考えるが、人権だとすれば、コストや不便などの理由で切り下げられてはならないことを含意している.

 科学は、一見無邪気に振る舞っているように見えて、なかなかどうして一筋縄ではいかない.科学者の共同体は、「『ブレーキ』ばかりか、ギアも、ハンドルさえもなく、アクセルだけが備わった車」にたとえられることがある(村上陽一郎「科学者とは何か」新潮選書).科学のレッセ・フェールは困るが、腰砕けも困る.責任逃れはなお困る.科学・技術を社会が制御するしくみを考えることが、今、どの時代にもまして重要になっていると思うのだが・・・.(光石忠敬)

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