編集後記


臨床評価 1988; 16(1): 197-8より

本号冒頭の総説の、私にとってはギリシャ語同然のところは無論スッ飛ばして読んでいると、剌繽謔ケ方式など同等性の推測方法 を、新しい薬効評価のシステムに加えざるを得ない統計家たちのこころを、垣間見ることができるような気がする。

剌繽謔ケ方式のようなやっかいな統計的手法が生まれた土壌である日本の臨床試験の現実について、藤田・椿はこう語っている。 「標準薬との比較、active controlが通常であるわが国の臨床試験では、有意な薬効差が検出されないことが多い。こうした統計的 には判断保留の状態にある新薬について、その製造(輸入)承認が求められている。」

そういえばFDAのTempleも、active controlについて、有意差を出すための統計的な手法がないこと、質の高い臨床試験をやろうと いう意気込みがないことなど、その危険性を強調していた(本誌11:Suppl. U)。アメリカでは、placebo対照試験が基本的には必要 とされる。

これと対照的に、日本では通常active controlが行われplacebo controlはあまり行われない。その理由は、どうやらplacebo controlは 倫理に反すると考えられているからのようである。placebo controlは本当に倫理に反するのか。そして如何なる倫理に、どのように。

窓外の目にしみるような新緑を眺めながら、書かれざる統計家たちのこころを勝手にでも推し量れないものかと考え始める。

placebo controlは倫理に反するかという問いを吟味するために、臨床試験に関するいくつかの論点を押さえていくことにする。

先ず、「絶え間のない行き届いた医学実験を行わないならば、われわれは新しい治療法の恩恵なしで済ますリスクをおかすか、あるいは、 十分に試験されていない新しい治療法でわれわれ自身を害する危険をおかすか、あるいはまた受け入れられてはいるけれども根拠 不十分な古い治療法で実際にわれわれ自身に危害を加える危険をおかすことになるだろう」(Fried)。こうして、もともと臨床試験に反 対でactive controlなら人間実験の色彩が弱いがplacebo controlは人間実験そのものだとしてplacebo controlを批判する者は、臨床 試験を行わない場合のより悪い結果についてもう一度考え直してみなければならぬ。

次に、臨床試験は研究者・医師が被験者・患者に未承認薬物を試みるという関係で行われる。研究者・医師が行うのであって、単なる 医師が行うのではない。医師には、「私の患者」に無条件の誠実をつくすという伝統的な規範がある。一方、研究者には、仮説を検証 し未承認薬物の有用性を判定する義務がある。前者は個人に対する義務であり、後者は全体に対する義務である。placebo controlが 倫理に反するという場合、一方の倫理のみを問い、他方の倫理を問わないで済ますわけにはいかない。

また、日本ではdrug syntonicな雰囲気が圧倒的でdrug alienな雰囲気は希薄である。新薬と標準薬(薬価だけで選定されないことを 祈っているが)を比較するだけなら、どちらも薬であるからとして臨床試験の計画、実施、評価への意気込みが存在しないことになる というのももっともである。Templeは、日本の臨床試験における主体面での欠点をやんわりと指摘したのではないか。active control が原則化していることによって、理路整然とした茶番に終っている臨床試験が少なくない、といったら少し言い過ぎであろうか。それと、 もともとくすりは効くものという思い込みが強い場合、placeboの使用は倫理に反するといういい方と結びつきやすい。

さらに、臨床試験は、対象が前臨床試験のようにラットやイヌではなく、人間であるという重要な差異がある。最大限の尊重が求められる べき資源を用いる実験をやる以上、せめて社会に対して意味のある結果をもたらすように計画され、実施され、評価されて、被験者 の尊厳がおかされないようにする必要があろう。

こう考えてくると、placebo controlが倫理に反するという主張は、研究者としての立場や倫理、drug syntonicな雰囲気を無視し、だらし のない、質の悪い臨床試験を容認する結果に力を貸しているだけでないかという疑問が湧く。

もちろん、以上は原則論であって、例えば自然治癒傾向が少ないこと、薬物の効果発現が早く明確なことなどplaceboを用いることが そもそも不必要な場合にまでplacebo controlをやるべきでないことは当然である。

また、症状、病型、試験期間によっては、研究者の倫理を考慮に入れてもなお倫理に反するとされる場合もあり得る。しかし、その場合 でも、例えば短期のplacebo controlプラス長期のactive controlの二段構えの手法などがTempleによって紹介されており、参考になる。 いずれにせよ、こういう場面があることをもってactive controlを原則にすることを正当化することは困難ではなかろうか。

最後に、informed consetの原則はplacebo controlの反倫理性の問いにどう影響を与えるであろうか。日本では、臨床試験でplaceboが 用いられる可能性が被験者に説明されて被験者がこれを理解した上で参加するというケースは、残念ながら、極めて例外的であろう。 placeboが使用される可能性が説明されるとplaceboがplaceboでなくなるという話を耳にすることもあるが、双盲法でいく場合、比較される 被験薬、対照薬、placeboのそれぞれに等しくplacebo effectが働くことになるから、比較試験そのものを阻害することにはならないと 考える。要するに、placeboが用いられる可能性についても説明し、被験者が理解した上で任意に臨床試験に参加する。臨床試験が、 そういう、研究者・医師と被験者・患者の協同作業であれば、そしてこのprocessについて独立委員会による実質的な審査があれば、 placebo controlが倫理に反するとの批判は当らないように思うが、どうであろうか。

徒らにゴールデン・ウィークの時間が過ぎてゆく。本欄の原稿しめ切り日が迫ってくる。

剌繽謔ケ方式を、根本的解決にならないことを承知のうえで新システムに組み入れた気鋭の統計家たちのこころは、あるいは、以上の ようなplacebo control擁護ではなくて、active controlで有意差の検出されなかったnegative trialの場合には新薬の承認は差し控えよ、 ということだったかもしれぬ。その点をもっと考えてから書き始めるべきだったか・・・・・・。

編集後記にはそれなりのスタイルとか長さとかいうものがあるのでは、という編集子の溜め息まじりの声が聞こえたような気がするので、 いい加減に筆を置くことにする。

本号にまとめられた1〜15巻の総目次が大いに活用されることを期待したい。

なお、前号で予告したアメリカのIND Rewriteの翻訳は、その後、(財)日本医薬情報センター(03-406-1811)の刊行物が先に出版された ことから、準備はしていたものの、本誌で重複して掲載することは中止することにした。ご了承賜りたいと思う。(光石 忠敬)

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