編集後記


臨床評価 1986; 14(4): 935より

本誌も14巻4号(通巻43号)を数えるに至ったが、発刊の初心を忘れることなくコントローラー委員会が責任を取りうる論文のみの 掲載を固くななまでに続けている。今回あえて論文の採否、印刷された臨床治験論文の責任の所在について駄文を書くのは 多少とも理由があってである。

まず執筆から印刷までの流れを追ってみると、いうまでもなく、論文は、その研究に参加した研究者によって書かれるが、100名 を超えるような参加者一人一人の眼を通っていることは稀で、多くは、中央委員会の中の一人が執筆者となりこれを中央委員会 のメンバーが承認するという形である。どれだけの部分が、真に研究者によって書かれたかを疑う人もあるが、これは論じないこ とにしても、レフェリーへの回答が度々、製薬会社の名入りのレターペーパーであったりするのは事実である。

それはさておいて、問題は、開票までに固定されたデータのみを用い、また開票までに約束された解析方法のみを用いて行った 成績が、そのまま全く変更なく論文に記載されているか否かのチェックである。臨床評価に掲載されている論文は少なくとも、 他に但し書きがない限りそのチェックを行い解析後にデータの変更のない保障を行っている。人間の行う行為であるから、誤り のあることは否めないが、この変更を許した時には、治験者と解析者の間に、その治験の結果から最も利害を受けるメーカー の介在が避けられない現況では、他にデータの質について保障を行う手段がないからである。

本邦では審査対象となる治験論文は原則として公表されたものとなっている。公表とは定期刊行物に印刷され、誰れもがそれを 入手しうるものを意味している。そのためか治験論文を掲載する雑誌は数多い。しかし印刷されたことによって、そのデータの 正確さの保障が高まるものではなく、またレフェリーのある雑誌の方が、その意味ですぐれるものではない。外国、とくにアメリカ では、治験論文の審査の条件に公表は要求されていないと聞く。FDAが、自ら調査解析を行うシステムがあるからであろうか。 データ以外の記述になると正確な記述はさらに微妙であり、抄録あるいは結語の記述の仕方で、その治験薬の評価は大きく 影響されやすい。

このように公表論文が問題となりうるのは、現在の本邦の審査が、なお提出資料を基にしていることが多いからである。このような 背景ででき上がった印刷論文のみから、正確な判断を下さねばならない調査会のメンバーには、眼光紙背に徹する鋭い洞察力 が要求されることになり、我が身を振りかえって恐ろしいことである。妄言多謝。新年の多幸を祈る。(N. S.)

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