臨床評価 1986; 14(3): 703より
3号雑誌に終わるかと思っていたこの『臨床評価』も、14巻3号を迎えた。
この雑誌は権威があるとかで、幸いに投稿原稿も多く、印刷まで時間がかかることが多かったが、どうやら今年こそは念願 していた年4冊(14巻は4号まで)の発行ができそうな形勢で、ほっと胸をなでおろしている。
こういった雑誌の権威は、偉い先生の投稿があって、その名前によって薬剤がパスする方向に審査される−といったことが 基準になると錯覚してはいけない。
いかにして生データが活かされるかという工夫、日常われわれが感じている素朴な疑問の解明への努力−がきちんと行われて いるような雑誌こそ、本当の意味で権威があると言うべきなのだろう。
本号にはたまたま広津論文、藤田らの論文という統計関係の総説が2編掲載されているが、これはともに、われわれが臨床 試験の場でいつも感じとっていながらどう処理していいか分からなかった疑問に、ある程度の回答を与えるものである。
我田引水のきらいがあるが、コントローラー委員会はいつもこのような方向にたゆまぬ努力をつづけているのだ。
しかしそれとともに今後ともわれわれの努力がこの方向だけでよいのかと、深く思いをめぐらすことも多い。
と言うのは『臨床評価』が14巻になったということは、われわれ自身が14歳年をとったということである。鏡をみて驚く花のかん ばせの老化は、われわれが知らず知らずのうち臨床での瑞々しい疑問と感動を忘れ、保守的になった危険を物語るもので ある。
別の雑誌の編集委員をして思うことだが、最近の薬効論文はどうもフォーマットが決まり過ぎてケチのつけようがない。形式 ばかりが整えられていて、本当にどの程度の臨床的な意味があるのかを疑問にしていないと言える。当局が、抹消するときは 黒のボールペンで2本線を引いて、判を押すなどという方向に指導すると、その薬が実際にどれだけ患者から要求され、また どれだけ危険なのかという一番根本的な問題の解明がなおざりにされがちであり、こういった潮流が最近つよいように案じられる。
今われわれが為すべきことは、生データを重視し、その薬の効果が本当にわかるような形のデザインを組むことにもっとも力を 注ぐことであろう。
若い情熱の参加を期待したい。(栗原雅直)