編集後記


臨床評価 1983; 11(3): 805より

眼をつぶると、なぜか不思議に一本の杭の姿がうかんでくる。川面にあって水の重みをいっぱいにうけながら、しかし川底にしがみついて、 流れにさからいつつ自分の場所をもっている。川の流れは変わったようだ、そのままにしていると水に沈んでしまう、というような出過ぎた 忠告にもかかわらず、頑なに杭は自分の位置をかえない。

臨床評価を出版しだしてから、もう満11年にもなる。薬剤の臨床評価をめぐる最近のもっとも大きい事件は、やはり最近の一連の不祥事 と思われる。それをきっかけに、医薬品の許認可をめぐる条件が、いっそう厳しくなったという印象は否めない。しかしそれは実質的な 審査基準の向上というよりも、黒インキか黒のボールペンで記入し、訂正の場合は必ず印をおすことといったビューロクラシー的な厳しさ に過ぎない点が問題だと思う。

薬事審議会のメンバーにも相当数の入れ換えがあった。不祥事件の当事者の場合ででもあれば止むをえなかろうが、この機会にこの 人を変えておきたいという、当局の意向あるいは真偽は保証しがたいがかすかな風の便りに聞いたしかるべき筋からの差し金による場合 もあり得るので、やはりこれは大きなうねりの前兆なのだろうか。なにしろこの問題には、オレンジとか非関税障壁とか防衛問題までが結局は 絡んでくる筈なので、止むをえない面もあろう。しかしそれによって薬剤の科学的な評価が一歩後退したのか、あるいは前進したのかは、 何十年かの時を経て後の世の人が刈り入れることであろう。

もうひとつここで言えることは、過剰な情報が氾濫する時代において、どれだけ個人・会社・国家が情報を秘匿しあるいは公開すべきかという 問題が、crucialになった時代であるという印象が強いということである。情報はreproductionがきくため、他人が作った申請データをF製薬の 社員のように盗み出したり、元データをN製薬のようにトップの指示で捏造・書き違えしたり、あるいはニセデータをH大学外科のようにコンピュータ に入れたりすることは、きわめて省力的な行為といいうるだろう。

気の毒なことに、F製薬の社員は別件再逮捕でいまだに留置所から出られず、N製薬の社長は元気だが、その担当部長は胃癌になって 亡くなったという(心身症だろうか?)。こういった時代であるため、本のコピーをとるような軽い気持ちで情報のreproductionをする誘惑に 負けるのはありうることだろう。情報はみなのもので可能なかぎり公開すべきである、という意見をコントローラー委員会は堅持するつもりでは あるが、権威者は情報のreproductionを処罰するという方向でしか自らの権威を高める方法を知らないようである。すでにそんな方向に 時代が流れはじめているのではあるまいか。

そこでまた私には例の川底にしがみついている木杭のイメージが浮かぶのである。オリジナル情報をどこのだれにでも提供してゆくという われわれの姿勢が、十年後にも守られていることを祈るのである。最後に、論説に伊藤斉ほかの論文『痴呆の評価尺度』を得たのは、 本号の収穫であると考える。(M. K.)

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